朔夜のうさぎは夢を見る

無明の絆

 この世界は不便である。それは、最初からずっと彼女が抱き続けている感慨だ。翻れば、あの世界がいかに利便性に満ちていたかということでもある。
 求めればいつでもどこでも、指先ひとつで欲求が満たされた。
 灯りに事欠くことはなかった。暑さゆえに動けなくなることも、寒さゆえに動けなくなることも。
 暑さ寒さは確かに厳しい。少なくとも彼女には、あの世界よりもこの世界の方が厳しいように感じられている。だが、暑さ寒さにはまだ対抗手段がある。
 暑ければ衣類を脱げばいい。寒ければぼろ布だろうがなんだろうが、身に纏えばいい。
 限りはある。とはいえ、耐え切れないほどではなく、何より慣れることもできている。

 しかし、世の中にはどうにもならないことがある。
 それが、恐怖心を煽る事象への対応。彼女の場合は、灯りが乏しいことへの終わらぬ恐怖。いや、畏怖だ。

 己が指先さえも見えない暗闇というものを、彼女はこの世界で初めて体感した。
 手探りで求めようと、指先ひとつで灯りを得られるわけもない。どんなに恐ろしくとも、月や星の光を頼りに、体を小さく縮こめて、朝日が昇るのを心待ちにするしかないのだ。
 ゆえに、夜中か、明け方か。あるいは悪天候時のいつの時でも。ふと眼を覚ました時、たとえ己の指先さえも見えない暗闇の中でも、包み込むように燻る伽羅香をかぐたび、心の底から安堵する。
 孤独は不安を増長する。逆に言えば、孤独感を和らげることができれば、不安は軽減される。
 どれほど指を伸ばしても光は得られない。けれど今は、ぬくもりに辿り着ける。

 夢うつつながら指を伸ばし、滑らかな絹の向こうに仄かにぬくもりを知る。ただそれだけで、まなじりに涙が滲む。
 暗闇は恐ろしい。孤独は恐ろしい。けれど、ここには自分以外のぬくもりがある。そう知ることが、何よりの光明となる。

 ゆるり、と。伽羅香が揺れる頃には、彼女の意識は既に夢の浮橋を渡っていた。ゆえに知ることはない。そっと落とされた吐息に乗って、伽羅香がより強くその身を包んでくれたことを。
「……躊躇うな」
 恥じる必要はない。隠す必要もない。
 求められる局面においてはわずかな瑕もなく完璧に振る舞うのだ。闇の中、伽羅香の内に包んでやれるかくな折には、いかようにも怯えればいい。
「強くなりすぎずとも、良いのだ」
 出会った時も、そうだった。闇に怯え、静寂に怯え、慄く自身に呑まれまいとするように。危ういほどに鋭い光を浮かべて、震える切っ先を握りしめていた。
「共に、在ろう」
 淡くあわく、言葉は吐息に紛れて闇に散り、やがてしじまに鎖される。己の指先さえも見えない暗がりの中で、見えぬぬくもりに指を預けて。



(一方通行の言葉ばかり)
(一方通行の約束ばかり)
(そこから踏み出せない己が、とてももどかしかった)

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。