波間の夢
「……ほぉ、これは、」
空ろ舟が海へと還り、ようやくすべてが解決したと思った。だというのに、穏やかな星空の下を滑るように奔る船の甲板で、派手な身なりの男がふと眉を持ち上げた。さざ波が立つばかりの暗いくらい海原を見据える双眸が捉えるものは、他の者にはまだわからない。
「えっ!? な、ななな、なに何ナニッ!? 今度は何なんですか薬売りさんッ!!」
途端、びくりと跳ねて頓狂な声をかしましく紡ぐのは小娘。身を縮めて落ち着きなく周囲を見回すのは商人。泰然とした様子の僧侶と、気弱な様子のもう一人。それから、興味のなさそうな浪人が一人に、興味津々の修験者に。
「ああ、いえ」
嫣然と、剣呑と、悠然と。いずれの表現も当てはまり、いずれの表現もふさわしからぬだろう。抑揚に欠けた声がようらりと、紡ぐ言の葉は真理でしかなく。
「大丈夫、今度はモノノ怪ではないようです、ぜ」
言いながら示されたのは甲板に置かれていた男の商売道具。普段は背に負われているその道具箱から、確かに退魔の剣の訴えは聞こえない。
「で、でもでもっ!」
「三國屋さん」
「はいぃっ!?」
必死に訴える娘の声を無視して、呼ぶ声と視線は憐れなほどにうろたえる商人へ。
「琵琶なんか、ありますかねぇ」
「たたた、ただ今っ!」
まろぶように駆ける背中を見やり、男は変わらぬ無表情で「器用なもんですねぇ」と実に無感動な声を吐き出した。
じょう、じょうじょう。
怖いならば戻ればいいと告げる声は気遣いの色など微塵も滲ませておらず、誰もがなんとなく甲板に居残る中で、男は意外にも流暢に撥を操った。
「祇園精舎の、鐘の声」
じょうじょう。
「諸行無常の響き、あり」
じょう、じょう。
どっかりとあぐらをかき、据え付けられた見事な水槽の縁で舳先を向きながら唄われるそれに、やってくるモノの由縁を察するのはたやすい。
「沙羅双樹の花の色」
星明りに、篝火が混じる。蒼い、蒼白い、ヒトの世ならぬ色で燃え盛る、儚く悲しき美しき焔が。
「盛者必衰の、理をあらはす」
ひときわ高く鳴らされた音の余韻は、なぜか舳先から。「へっ!?」と頓狂な声を上げた娘の視線の先、男の手の内から琵琶は消え去っている。恐る恐る音のした方へと視線を滑らせれば、男と同じく抜けるように白い、けれど男よりよほど武骨な指につままれた撥が、実に流麗な所作でじょうと弦を打ち鳴らすところだった。
ひぃと上がった悲鳴は娘のもの。商人のもの若き僧侶のもの。呻く声は浪人のもの。感嘆の声は、修験者と老いた僧侶のもの。
「……おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし」
じょうじょう。
「たけき者も遂にはほろびぬ」
そこは先ほどまで、海座頭がいた場所だ。同じ場所に、同じように、いつの間にやら居座っているのは実に体躯の良い男が一人。刃のような色の髪をざんばらに靡かせ、朽葉色の狩衣を怠惰に着崩した。そして俯けられていた顔がゆらりと上がり、奈落のような深紫の双眸が、わらう。
「――偏に風の前の、塵に、同じ」
わらう瞳の底知れなさを隠すように、艶やかな緋色の袖が宙を翻った。
いつの間にやら琵琶の音はかの有名な音曲を忘れ、実に雅な韻を踏む。水槽の上で、水面に波紋だけを残して舞うのは黒髪の艶やかな娘が一人。足元を泳ぎ回る金魚の尾鰭のように、ひらひらと緋色の袖を翻して。
どれほどの長さだったのかはわからない。静寂が戻ってきてもなおすべてに魅入られて呆然としている場に、ぱちぱちと、気のない拍手が響き渡る。
「いやいや、見事。して、何をお求めで?」
「傷薬を、いただけますか?」
当たり前のような問いかけに、当たり前のように返されたのは夜闇色の双眸。肩越しに振り返り、琵琶を抱えて腰を上げた男の隣で、緋色の衣を纏う娘は悲しげに微笑む。
「なまくら刀で切られた傷が、今なお疼いて困っています」
「切れの悪い刀を持つなど、もののふとして失格ですねぇ」
「おおかた、潮にやられたのだろう。……奴ら、海戦には不慣れゆえな」
「ああ、なるほど」
宥めるように娘の肩を撫でおろす指は、病的に白く、赤黒い血を伝わせる。よく見れば、彼女の衣には緋色の濃淡。その由縁を察するのは、いともたやすく。
息を吸い、次いで金切り声をあげるはずだった娘の口を覆ったのは修験者の手だった。有無を言わせぬ力で声を遮り、低く「お待ちなさいな」と機先を制す。
「では、これなどいいでしょう。切り傷にも、化膿にもよく効く」
言って差し伸べられた指先には、大振りの蛤で作られた豪奢な薬入れ。金に塗り、縁は緋色。星明りにも艶やかなそれに、娘が無邪気な微笑みを返す。
「ああ、それと、」
貝を握るのは左の指。付け加えながら差し伸べられたのは、右の指。
「水も、いかがですかね?」
たぷんと鳴った様子からして、吊り下げられたひょうたんの中身はきっと清水。いつの間にとの疑問よりも、なるほどとの確信が見守る誰もの胸に広がる。
「そうですね。では、ありがたく」
笑う娘が振り返り、唇を歪めた男が視線を伏せる。とたんに吹きぬけた銀と墨との一陣の風が、男の指先から貝とひょうたんをさらって消える。
「波間に沈みし亡霊の、ただ懐かしき、春の夢」
「さぁて。そいつはわかりませんぜ」
腰を抜かした娘を甲板に座らせてやり、謡うように紡いだ修験者に薬売りはあやしくわらった。
「俺は、ただの薬売りなんでね。お客のことは、大切にするんですよ」
言って水槽を迂回し、舳先に放りだされてしまっていた琵琶を抱えて商人の許へと戻ってくる。
「これ、どうも」
「あ、いやいやいやいや、あの、そのっ!」
「大丈夫、祟られてなんかいませんぜ?」
直視するのも憚られるとばかりに首を大きく振り、嗚咽混じりの拒絶を示すばかりの商人に、修験者が言葉を添える。
「見世物にするなら、この上ない価値を帯びたことになるが」
「いや、いやでも、しかし」
それでもなおと拒絶を繰り返す商人に、男は「確かに」とひょいと琵琶を裏返す。弦を張った、表が見えるように。
「うわぁ」
それぞれの感嘆の声の中で、一番間抜けで一番正直だったのは娘のものだった。あれほど脅えていたのが嘘のように、今はきらきらと目を輝かせて螺鈿の見事な装飾に見入っている。
「絵巻のそれとは、違いますがね」
質素なばかりのありふれた琵琶に、いつの間にやら施されていたのは絵巻の一部のような見事な装飾。風のいたずらか、びぃんと鳴った弦の音。それに思わず肩をすくめた一同の背中の水槽に何やら重いものが落ち、沈む音が響き渡った。
Fin.