朔夜のうさぎは夢を見る

真昼の月

 まだ仕事があるからと、二人の娘を宿に送り届けて本宮に文字どおりとんぼ返りするヒノエは、脳裏で繰り返される会話を頭を振って追いやり、明日に控える還内府との問答のため、冷徹な別当としての表情に立ち返る。
 烏に探らせた限りでは、どうやら熊野訪問の予告を出してきた知盛は、単身で訪れているらしい。伴うと言っていた還内府はどうしたのか。よもや謀られたのか。あるいは、怨霊の特性を利用して空間を飛び越えて現れるのか。
 探ろうにもあまりにも情報が少なすぎて、可能性さえ探れない。
 源氏勢の連中と鉢合わせられては面倒だからと、本宮付近に現れた折にはこちらで手配した宿に案内する手はずは整えてある。生き人でもあり、熊野に何度も参詣している知盛の顔を知る烏は少なくない。わざわざヒノエが出ずとも、烏に任せて捉まえることはそう困難でもない。
 だが、黄泉から還ったという小松内府は、その名を聞きはしても、姿を見たというものは皆無。噂では随分と若かりし頃の姿をしているというが、そんな曖昧な情報では困るのだ。


 どうしたものかと思う一方、野放しになどせず責任を持って連れて来いとの文句も送りつけてある。九郎達とほぼ日時を同じくして本宮に姿を現したという知盛は、伝令の烏をそのまま送り返し、確かに了承の意を伝えてきていた。だというのに、繋ぎを取った様子は微塵も見られない。
 日時の指定は源氏方よりもよほど迅速だったというのに、当日を間近に控えてなお役者を揃えていない姿には、正直なところ苛立ちさえ募る。そして、そんな状況をどうせ余さず把握しているのだろう食わせ者の叔父の立ち回りにも、また。
「僕らに態度を保留すると言ったその足で、いったいどこのどなたに会うつもりですか?」
「わかってんだろ? それとも、わざわざ言わせようってか?」
 住居を兼ねた本宮の奥に戻ってみれば、烏を呼ぶよりも先に待ち伏せていたとおぼしき相手に捕まったヒノエは、半目で見返しながら相変わらずの読めない微笑に対峙する。
「君にわからないはずがありません。いったいどちらに大義があるのか、その流れを読み誤ってほしくないだけです」
「じゃあ聞くけど、源氏についたところで、熊野はいったいどこへ連れて行かれるんだい?」
 いけしゃあしゃあと言ってのけているが、微笑の奥で瞳は冷たい光を湛えている。親族としてではなく、各々に譲れない信条を抱える人間同士として、ヒノエは弁慶に向き合って厳しく言い放つ。
「大義はあるだろうよ。だけど、それだけじゃあ俺は熊野を守れないし、熊野の未来が見えてこない」
「鎌倉殿は厳しい御方です。ですがその分、働きに見合った恩賞は厚いはずです」
「だから、だったらその具体的な恩賞ってやつを示せってんだよ」
 思惑など見透かしているだろうに、あえて美辞麗句を並べ立てるその姿が、ヒノエは気に喰わない。
「俺個人の意見としてはね、怨霊の使役だの神子の降臨だの、そんなのはどうでもいい。それよりも、今後のことも含めてきっちりした商談を持ちかけてくれる平家の連中の方が、大義ばっかりを説く鎌倉よりもよっぽど信用できるんだよ」
 だから、あえてぶつけるのは綺麗ごとなど微塵も含まない、泥臭くて俗にまみれきった、為政者としての見識。


 短い話では終えられないだろう。適当にあしらって追い返すことは早々に諦め、ヒノエは勧められたまま口をつけていなかった白湯の椀に手を伸ばす。
「大義、大義って言うけどさ、兵力は五分。士気はまあ、神子の降臨と月天将の捕縛でアンタ達が上か」
 舌を湿し、若くもやり手として名を馳せる熊野の長は静かに語る。
「けど、平家はまだ知盛や重衡といった主だった武将を一人も失っちゃないし、西国の所領は飢饉を乗り切って、今年はむしろ豊作だって話だ」
 昨年は飢饉に喘ぎ、その中での強引な進軍には反対の声も少なくなかったと聞く。興味深いのは、漏れ聞こえる情報を総合した限り、そういった意見を口にするのが基本的に知盛である点だ。
 戦のなんたるかをろくに知らない、栄華の只中で生まれ育った人間こそが最も根源的な部分を理解している。戦上手の異名をとり、総大将として参陣してなお先陣を切ることを譲らない姿から、平家きっての好戦的な人物という評が一人歩きをしがちだが、今回の水面下での接触といい、人物観を修正する必要がありそうだというのがヒノエの感想である。
「西海の水軍の連中や領民含めて、清盛の頃から苦楽を共にしてここまで来たんだ。身内同士で喰いあう源氏より、平家の方が結束は固い。こういう駆け引きでの根回しも、さすがに宮中を渡ってきただけあってあっちが上手」
 打算でもなんでもなく、純粋に真っ正直なところが九郎の持ち味であり魅力であることは存分に理解できる。それでも、それが活きる場面と活きない場面は明白に線引きがされているのだ。
 人心を惹きつけるという意味では有効だろう。軍の総大将として立つ分にも役立つだろう。だが、彼が相手にしているのは彼を仰ぎ見る存在ではない。
 勢力としては互角、身分としては、源氏棟梁の名代である九郎よりも、熊野別当であるヒノエの方が上。そういった自尊心やら周囲からの見え方やらを配慮した行動が必要とされる立ち回りにおいては、決して有効とは言い切れない性質なのだ。その分、そういったものをこそ相手にして魔窟でもある宮中を乗り切ってきた知盛の交渉のそつのなさは実に際立ってみえる。
「決して優勢なんて言えた状態じゃないんだぜ? その辺、あの御曹司殿は本当に理解してんのか?」
「その決して優勢ではない状態を覆すだけの力が、九郎にはあると言っているんですよ」
「だから、そういう曖昧な条件じゃ熊野は靡かないって言ってんだよ」
 堂々巡りの様相を呈してきた問答に、呆れを存分に孕ませた溜め息がヒノエの唇をすり抜けたのは、むべなるかなというものである。


 九郎個人を見知った今であり、仮にも叔父が参謀として与している勢力であり、さらには自らに神の理による選別を与えた神の愛し子が身を寄せている相手。そう思えばこその助言だというのに、実らないならば見限るまで。そして、それをわからない弁慶ではないのに。
「君は、この戦乱を長引かせたいんですか?」
「源氏に加担するだけが道なのか? 言っとくけど、俺はあちらさんの話を聞くまで、態度を決するつもりはない。それは変わらねぇよ。三山のジジィ連中からの条件でもあるしな」
 ようやく顔を見せはじめた弁慶の本音にあくまで冷静に返しながら、ヒノエは内心でほくそ笑む。
 目の色が変わった。ほら、アンタだってそうだ。大義だけで動く人間なんて、いないものさ。
さんの話に、絆されましたか」
「何だよ、聞いてたのか?」
「気づかないとは、君も彼女もまだまだですね」
 わざとらしく肩を竦める様子には感情を逆撫でられるが、そんな程度で激昂してはいけない。激情に駆られ、感情に振り回されては冷静な判断が下せないことを、ヒノエはよくよく知っている。迂闊なことを口走れる立場にはないのだ。言質をとられるわけにはいかないのだから。
「勘違いしないように。平家一門の驕りが、京をどれほど荒廃せしめたか、君も知らないわけではないでしょう?」
「アンタの物言いは、後白河院のそれにそっくりだね」
 それでも、感情を完全に殺すことはできない。思わず不快感に眉根を寄せ、鼻を鳴らしてヒノエは続ける。
「確かにやつらはやりすぎた。けど、恩恵だって齎したはずだ。権門としては、ごくありふれた姿だったと思うぜ?」
「だから、許すと?」
「許す、許さないなんてことははじめから考えちゃないよ。俺はただ、熊野を守るだけ。そこに関係ないことなら、別に何がどうだって構わない」
 それこそがヒノエの本音。そして、それこそがヒノエの譲るわけにはいかない一線。


「望美さんを悲しませたいんですか?」
「そういう物言いは卑怯だと思うけどね」
 唐突に攻める方向を変えてきた弁慶に、鼻白んだ表情を隠しもせずにヒノエは応じる。
「悲しませるつもりはないよ。むしろ、あちらさんからの内々の打診が真実だったなら、“白龍の神子”としては一番歓迎すべき可能性が拓けると思うよ」
「……何が言いたいんです」
「さぁね、考えなよ。それがアンタの仕事だろ?」
 かの神子姫が向き合っている問題の解決に最も尽力せねばならない立場にあるのは、彼も、自分も、そして叔父も同じだとヒノエは思う。押し付けてはならない。伝説は御伽噺ではなく現実になった。だからといって、頼りすぎてはならない。
 確かに彼女にしかできないこと、彼女にしか揮えない力はある。だが、だからといってこんな、人の起こしたいざこざまで彼女に押し付けてはならない。彼女はあくまで、異世界からの客人。この戦乱の発端に、しがらみに、彼女は無関係なのだ。
「ただ、そうだね。仮にも身内だし、同じ八葉としてのよしみだし? 夕餉の席で、少しばっかりあちらさんの手の内を明かしてやるよ」
 だからじっくり考えな。そう笑ってヒノエは裾を払って腰を上げる。
との話を聞いていたんなら、アンタには先に教えてやるけど」
 追いかける視線は鋭かったが、怯むような可愛げなどなく、引き止められても振り払うつもりだった。これ以上は付き合う必要もない。十分に身贔屓はしているのだ。あとの判断は自分達で下せばいいとヒノエは思う。
「連中、自分達の矛盾なんか、とっくに覚悟の上だぜ? その上で、俺もできればやつらの目指す道とやらを選んでみたいって、個人的にはそう思ってる」
 言って叔父の返事など期待せず待ちもせず、ヒノエは今度こそ放っていた烏を捉まえるために邸の奥へと向かった。





(その目に映らなければないのと同じだなんて、そんな傲慢な考え方しかしないから、)
(あるものが見えず、選べるはずのものが選べないのさ)

Fin.
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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。