朔夜のうさぎは夢を見る

紅にほふ

 突飛な主によって拾われてきた妙な娘が女房として仕えるようになってよりは、一年と半年ほど。なぜか主がかの娘を本気で囲うような様子が見られてよりは、半年と少しが過ぎた。
 珍しくもわかりやすく独占欲を示している姿は目に新しい。他の男になぞ決して渡すつもりはないらしく、幾重にも策を巡らせて歩く姿は、時に軍場での背中をも髣髴とさせてその本気度を知らしめる。もっとも、その姿を見て、存外素直な部分が残っていらしたのかとしみじみ思ってしまったあたり、家長も十分に主の個性に毒されている。


 家長は、知盛にとっては乳母子というごく近しい関係にあり、その性情をよく理解している腹心の部下でもある。郎党の中では最も主に近い立場にあるという点から、主に関する諸々の事情を汲んでの行動が暗黙のうちに求められることも多く、女房との密な遣り取りは必要不可欠。ゆえ、かの妙な娘が主付きの女房として働くことが決まってよりこちら、手探りながらも着実に距離を縮めてきたという自負がある。
「お出かけですか? 胡蝶殿」
「家長殿」
 出仕の行き帰りには付き従うが、主が宮中に詰めている間、家長には家長で仕事がある。今回は珍しくも己の公的職務たる判官としての仕事が早々に片付いたため、治安維持のための見回りも兼ねて市に足を踏み入れたところで、そして見かけたのは主が大切に籠に閉じ込めているはずの妙なる蝶。
 当人は良くわかっていないようだが、人込みにあってなお後ろ姿だけで人物を特定できる要因は醸し出す空気と、主が特にと密かに誂えさせている衣がそれはそれはあからさまだからである。決して華美に過ぎるわけではない、実に趣味の良い逸品。なれど見るものが見れば一目で主の主張を見抜ける、実に嫌味で秀逸な一品である。
 近くによって声をかければ、目を軽く見開いて振り仰いでくる。
「お勤めご苦労様です」
 本日はもう終わられたのですか? と。被衣の向こうから顔をのぞかせ、微笑む様子は実に気安い。


 やはり彼女は知らぬようであり、主は知っていて気にも留めていないようだが、家長は知盛が彼女を訪ねて山を登るたび、実はこっそり後をつけていたのだ。遠巻きでは言葉を細かに聞き取ることも適わなかったが、あの不思議に気安い空気は、雅やかさとたおやかさを身に纏い、誰に対しても「権中納言付きの女房である」と紹介しても恥ずかしくないほどにまで成長した今でも、なぜか根源的な部分が変わらずに滲んでいるのだから面白い。
 ありきたりさよりは物珍しさや刺激を求める割に、いざ手元に置いたり長く深く付き合うにはむしろきっちりした常識を求める主の、このいかにも気難しい要求にぴたりと合致する存在を、家長は他に知らない。言葉どおりに「妙な」としか思えなかった娘の本質を、きっと主は見抜いていた。そうでなくば、いくら彼女が主の負う何もかもに対して無知にして盲目な、稀有な存在であったとしても、拾うと決めていきなり、生まれてこの方の付き合いである安芸や家長と同じ距離の場所に招きはしなかったはずだ。
 どうにもその無意識の判断に対してはまだ自覚が薄いのか、それとも自覚をした上で何かの機でも図っているのか。安芸が実にもどかしそうにやきもきしている姿を見ては、似たようなじれったさと微笑ましさを抱えている。
「お邸に戻られるところですか?」
「いえ。今は、市中の見回りをと思いまして」
 つらつらと流れていた思考に入り込む穏やかな問いに答えれば、改めて「お疲れ様です」と丁寧な労いが向けられる。そして、ふと思い立った様子で襟元に手を差し込み、小振りの包みを取り出した。


「よろしければ、お勤めの合間にでも」
「こちらは?」
「桃を干したものです」
 大判の葉で包まれたそれは、とても軽い。差し出されるままに受け取りながら問えば、なんとも愛くるしい中身を告げられる。
「疲れを取るには、甘味が手っ取り早いと申します」
 女子供でもあるまいにと、脳裏をよぎった感想を見透かしたように加えられた説明に、それ以上の思索は取りやめる。彼女は女だてらに太刀の扱いを学び、馬を駆る不可思議な側面と共に、薬師としての確かな知識と経験を持つ。主の不調の際にも適切に対応しているらしいその手腕を疑うつもりはなく、疲労回復にと、そう言われたのならそうなのだろうと素直に信じるだけだ。
「お心遣いは大変ありがたく存じますが、いただいてもよろしいのですか?」
「わたしのこれは、単なる嗜好ですもの。また、欲しくなった折に探しますから」
 女子供と、先の発想は間違ってはいなかったのだろう。玉も衣も香さえ欲しがらない娘の意外な物欲に微笑ましさを覚え、同時にそれを抑えてでもと渡してくれたことの意味を汲む。そんな言葉の読み方を無意識にしてしまうあたり、主と共に過ごしてきた時間の長さと距離の近さを思い、娘と主の思いもよらぬ類似点にゆるく眦を和ませる。


 彼女に自覚はあるのかないのか。滅多に手に入れられないだろう好物を差し出してまで労われるに値する職務は、これより内裏に出向いて主を邸までしかと警護することのみ。
「では、ありがたく頂戴いたします」
「ええ。どうぞこの後のお勤めも、頑張ってください」
「この身に代えましても」
 それをわかって言ってくれているなら、どうかこのままで、と思う。
 それをわからず言っているのなら、どうかこの先へ、と思う。
 そのまま簡単に辞去の言葉を述べ、人波の向こうに消えていく背中には、つかず離れずの距離で見覚えのある郎党がついている。つと寄越された軽い会釈には頷きを返し、見送ってなお視点はそのまま、家長は思う。
 主は本気だ。少なくとも家長の知る限り、こうも慎重に、こうもあからさまに、こうも切実に可能性を模索する主は初めて見る。そして、いかにも妙なかの娘は、既にあの邸に馴染み、今や欠くことの考えられぬかけがえのないしじま。だから家長もまた優しい未来を願う。きっと、今やかの邸の誰もが願うように。あの獣とあの蝶の紡ぐ、穏やかな朝ぼらけのような日常の悠久なるを。



(きっとあなたは桃花水)
(誰にも齎せなかったあの方の目覚めに、さあ、どうか果実を差し上げてください)

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。