朔夜のうさぎは夢を見る

雲居遙かに

「ずいぶんとご機嫌でいらっしゃいますね」
 詩歌を朗と詠う声の温度に主の上機嫌を察し、娘ははたりと瞬きながらも薄く唇を弧に描いた。主が上機嫌なら、娘はからかわれて不機嫌かつられて上機嫌かのどちらかであることが多い。幸いにして、今回は後者にあたったのだ。
「なんぞ、珍しきものでもございましたか?」
「さて……世にも珍しき胡蝶なれば、我が手の内にて囲っておるが」
「世には珍しくとも、御身には珍しくもございますまい」
 切り返される言葉はゆらゆらと愉悦にそよぐ。本当に、ここまで純粋に機嫌が良いのは珍しい。目を小さく見開きながら応じるが、何せ主は気にした風もないのだ。
「お前、そういえば神楽を学んだと言っていたが」
「はい。せっかくなのだから、神を讃える術は知っておくようにと、巫女様が」
「真理……いや、謙虚な妥当さ、か」
「いずれもだと思います」


 望んだ覚えはないが、今はその稀少さをありがたいと噛み締めることを覚えた。神の加護あってはじめて叶ったことを一度でも知ってしまったなら、なおのこと。だって、神の力は確かにこの身を救い、あの人を救い。ひいてはあの人の守りたいものを守る布石になっただろうと、娘の正体を知る者は皆そう言っていて。
「ご満足いただけるかはともかく、捧ぐことは決して無駄にはなりますまい」
「そう、卑下することもあるまい」
 神は、己が愛し子には際限なく寛容であらせられる。讃えるでもなく蔑むでもなく、ひそりとわらう声はどこまでも透明。ゆえに、その愛し子が捧ぐものならば、カタチよりも内実と籠められた祈りをこそ受け入れるだろう。いっそたおやかに言葉を織り、主はおもむろに指を持ち上げる。
「なればお前、舞台に立つこともまた、能おうよな?」
「……可否を問われるのでしたら、否と申せば偽りとなりますが」
 投げ掛けられた問いには、嫌な予感がする。やはりただの気まぐれによる上機嫌では終らなかったかと。ほぞを噛む思いでしかし、娘は逃げ出すことをこそ厭う。


「一体、いかにせよと申されます?」
「なに、今宵は七夕の節句。乞巧奠とは異なるが、天にまします御方に……共に献上するのはいかがかと、な」
「なれば、庭に用意をいたしましょうか? それとも、いずこかの房を?」
 主は滅多に披露してもくれないが、これでいてかなりの腕の持ち主。腕試しをされるというなら、緊張もするが望むところというものだ。どうせ寝酒の肴も兼ねるのだろうからと察して先んじてみれば、意外や、必要ないとのいらえが与えられる。
「そうではなく、出かける支度をしておけ」
「いずこかのお社に?」
「いや?」
 いっそ愉しげににやりと笑い、宙で遊んでいた指が娘の頬をさらりと撫でる。
「父上のお邸に、だ」
 予測できなかったわけではないが、やはり釈然としない。顎を捕われたまま思い切り眉を顰めることで抗議の意を示したつもりなのだが、主はくつくつと笑うばかり。通じてはいるのだろうが聞き入れるつもりがないのだから、もはやどうしようもない。


 もっとも、何がどうなろうとも娘には事物の決定権などないのだ。宴席にて舞を披露すると、主がそう言うならそれは確された未来。不可避の現実なのだ。大慌てで支度を整えにかかれば、いつから今回の一件を目論んでいたのか、真新しい誂えが一式与えられる。初秋の夜に似合いの、実に涼しげな萩重の襲。下降気味だった機嫌が現金にも上向くのを感じながら、連れられた先の邸にて、あらかじめの言葉どおり主と共に舞台に上がる。
 献じたのはしかし、神楽ではなく柳花苑を一差し。鎮めの舞であるとの謂われは確かにあるのだが、あえてなのだろう。どこまでも艶然と扇を翻す主の手にかかっては、もはやまったくの別物でしかありえない。
「満ちる、な」
 背を合わせ、あるいは向かい合い、ともすれば鼓動さえ聞こえそうな距離で舞うのはきっとわざとだ。客席から突き刺さる嫉妬と羨望の入り混じった視線と、賞賛の吐息が複雑に絡み合う。
 これでまたいらぬやっかみと嫌味の文が増えるのだろうと、脳裏に苦い思いを滲ませる娘とは対照的に、主は上機嫌を崩さない。
「つまらんことになぞ捕われるな……。今は、俺だけを感じていろ」
 すれ違いざま、袖をもたげた陰で耳に吐息と共に吹き込まれたのは、熱くて甘い呪縛の言の葉。思わず頬に血を昇らせた様を笑う気配が、背中に回ってますます艶美さを撒き散らす。


 彼は満ちると言ったが、娘は酔わされてばかりだ。意図せず唇をすり抜けた吐息は、客席から漏れ聞こえるそれらに負けず劣らず熱に浮かされている。そうと自覚するのと主がそれに気づくのは同時。
 艶やかな、どこか幸せそうな笑みがちらと娘の視界の端に映り、引き戻された袖に包まれた耳元で「後ほど、俺のためだけに舞えよ」と囁きかけられる。形式破りの舞の終焉をそれでも賞賛する拍手の中で、思うのは優越感にも似た諦観。これほどの特別扱いの代償といわれるのなら、やっかみと嫌味の文は甘んじて受けるべきなのだろうと。
 それでも、憂鬱であることに変わりはない。思わず現実逃避の溜め息をこぼしてしまったことが、帰邸してよりの主の艶美な戯れにどれほどの拍車をかけるかは、鼓動を宥めすかすだけで手一杯の娘には知る由もないことだったのだが。

Fin.

back to 遥かなる時空の中で・幕間 index

http://crescent.mistymoon.michikusa.jp/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。