朔夜のうさぎは夢を見る

言えなかった言葉

 あえて言うことでもないかと、そう思って、口を噤んでいたことがある。言葉を呑み、声を鎖し、そっと秘めた自嘲と揶揄。きっと、音にして宙に放った途端、娘の心を深く抉るだろうと知っていた、それ。
 戦があろうとなかろうと、日常生活は続けられるものだ。それが、どんな歪みを孕もうとも。そして、歪みを露呈させた時間を積み上げるのか、それらさえ呑んで平静を貫くのかは、偏にその只中にある人間の手に委ねられていると知盛は捉えている。
 煌びやかな生活から転がり落ちる中で、欠けるものは少なくない。失ったもの、それゆえに保てなくなったものも多い。だが、知盛が貫かんと選ぶものは、そういったものではなかった。そういう意味では、権勢の頂にあってらしからぬと、そう陰口を叩かれていた己の物欲の薄さを、実に便利なものだとさえ思うのだ。


 薄闇の中に、ひそやかな寝息が漂う。戦の気配など微塵も感じさせない、常と同じく健やかでのどかで、気の抜けた感さえ滲む、愛すべき枕の日常の姿。その息吹をそっと腕の中に閉じ込めて、知盛は変えずにおきたいと望み、変わらずにある平穏を確かめる。
「滅亡への道行きは、どう足掻いても止められぬ……と、いうことか」
 静寂を割ったのは、絶望すら超越した諦念の声。微塵の感慨もなく最悪の結末を見据え、薄暗いがゆえ朧な視界の中で知盛はひんやりと嗤う。
「軍場という血の宴に酔い、兄上という幻想に浸り、お前という安穏にまどろみながら堕ちゆくのも、悪くないだろうさ」
 繰り返される娘の呼吸は深く、幼子のように丸められた背に感じる体温は高かった。髪に、頬に、指先を滑らせれば、むずがるように身じろいでいっそう深く懐に潜り込んでくる。遠い、かつて子守りを押し付けられてはその腕の中に幼子を抱えていた記憶を、暗闇の向こうにぼんやりと辿る。


 言えば、娘は眉を顰め、無表情を保とうと頬を引き攣らせながら瞳の奥に険を宿すのだろう。そして、絶望を殺そうと指をきつと握り締めるのだ。
「このまま、滅びを受け入れるのも一興……そう言えば、お前は俺を見限るか?」
 それとも、それさえ受け入れて泣くのを堪えながら、それでも傍に在ると言うのだろうか。そんなことは言うなと泣くのだろうか。怒るのだろうか。引き止め、思い直すようにと言葉を重ねるのだろうか。
 どれもありえそうで、そう思わせながらどれも呑みこみそうだと思われた。わかりやすいくせにわかりにくい、不可思議な、あるいは不条理な娘。彼岸を見るよりは近く、此岸を見るよりは遠い、秩序じみた混沌を宿す存在。なればこそ包まれる眠りが心地良いのだろうかと、返らぬ答えに笑みを深めて知盛はゆるりと瞬く。


 大義は建前。だが、その建前を掲げてこそ兵達は戦う。神の意は我らと共に在り、と。その名分を凌駕する建前なぞ、用立てられるはずがない。
 兵も、町民も、朝廷も、みな正義を神の名の許にこそ認めるだろう。これまではまだ方向性が定まらず、あやふやに停滞していた時勢が、導を得て一息に流れ出す様が瞼の裏にありありと描かれる。
 愛ゆえに、情ゆえに、妄執ゆえに。ひずみ、歪み続けた道は、辿りうる未来の選択肢をこうして徐々に徐々に、削ぎ落としていく。自らの手足を縛り、自らの首を絞めていく。けれど、わかっていても振り切れないから、知盛は道を分かたない。
「……こうしてまどろんでいられるのなら、その道が破滅へと続くのであっても、俺は一向に構わんのだが」
 それはひとつの選択肢。選ばないと決めた選択肢。違う道を往った末に辿りつくのだとしても、率先して進むことはないのだと定めた選択肢。


 そして知盛は眠る娘を抱いて囁く。あえて言うことではないと、そう判じて胸の内にしまいこんだ言葉を。道の向かう先を見据え、変わらぬ流れを悟り、あまやかな誘惑から目を逸らし、けれど決して偽ることのできない思いの最奥を。聞かせるためではなく、偽らないために。
 聞かせたとしたら、娘はどうするのだろうか。答えの返らない思惟はとめどなく薄闇に溶ける。認め、受け入れるのか。否定し、抗うのか。拒絶し、背を向けるのか。どれもありえそうで、けれど娘がどうするのかはわからない。娘は、秩序じみた混沌を孕んで知盛の半歩後ろを、その足で歩んでいる。
「いっそ、このまま水底の都にて目覚めてみたいもの……だな」
 そうすれば、変えずにおきたいと願い、今はまだ変わらずにあるこの平穏が変わり、喪われる瞬間に遭遇しうる未来を滅ぼせるのに。
 返らない、返るはずのない答えをそれでもなお聞かぬよう意識を沈め、視界を鎖して。知盛は切り捨てた道の代わりに束の間の、あてどのないまどろみへとさまよい出ることにした。


言えなかった言葉


(拒絶でも、許容でも、どちらでもいいさ、お前は好きな道を選べばいい、けれど)
(逃げ道を示しながらもお前のいない道行きを認めない俺は、お前を手放さないために、)
(告げられぬ言葉を幾重にも胸に沈めるのだろうよ)

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。