告解をあなたに
崩壊の音は、思っていたよりもあっけないものだった。玻璃の砕けるそれよりも儚く、かわらけの砕けるそれよりも脆く。聴覚ではなく、恐らくは第六感で聞きとったそれは、あらかじめ重衡と言い交わしていた限界の合図。
「清盛、邪魔する――」
ぜ、と。最後まで、口上が紡がれることはなかった。結界が解かれると同時に庭へと吹き抜けた陰気の暴風をやり過ごし、御簾を跳ねのけて踏み入った先には重く重く、淀んだ空気。呑まれてしまえば二度と抜け出せないようなその気配は、まるで底の見えない沼のよう。そして、その底なし沼に力なく崩れ落ちている見慣れた背中と、そんな背中には一瞥もくれずに将臣へと飛びついてくる、くすんだ金色の人影と。
「おお、重盛!」
「兄上ッ!?」
飛びつかれてたたらを踏んだ将臣にかけられた嬉々とした声は、その横を駆け抜けた重衡の悲鳴とはあまりにも対照的。気の奔流に耐え切れなかったのだろう。座していた姿勢から無理矢理床にねじ伏せられるようにして倒れている体を抱き起こしても、呻き声ひとつ聞こえない。
「兄上、聞こえますか? 兄上、兄上ッ!」
常の様子からは考えられないほどに取り乱し、まるで泣きだしてしまいそうな様子で呼びかけながら、重衡は必死に抱えた兄の様子をうかがっている。
腰元に纏いついたまま、必死に何かを訴える清盛の声など、将臣には聞こえていなかった。それでも振り払うにはあまりにもその手は稚く、愛おしく。呆然と、何もできずに立ち尽くして、将臣は脳裏に響く嘆きの声ばかりを聞いている。
なぜ、どうして。清盛は家族思いだ。それはもう、本当に。こうして世の理を外れる存在として蘇ってからも、時子に対するあまやかさ、言仁に対する慈しみ、兄弟に対する寛大さは何も変わらなかった。それは、多くの子供達や孫達、甥姪、姪孫に至るまでであり、感情の起伏が激しくなっても、その目に将臣ではなく"重盛"しか映らなくなってしまっても、その根幹は変わらなかった。だというのに、どうして。だって、そんな数多の彼の家族の中でも、彼は、知盛は、"重盛"に次いで清盛が気に入っている息子だと誰もが認めていたほどなのに。
「どうなさったのです?」
まったく収拾がつかないかと思われた空間に、そしてふと、穏やかな声が吹き抜けた。縋るように重衡が視線を跳ね上げ、将臣は泣き出したい心地で首を捻り、清盛はあまりにも優しい声で「時子」と呼びかける。
「なになに、時子。大したことではないのじゃ」
少しばかり、知盛が聞き分けの悪いことを申してな。もうずいぶん大きくなったとばかり思うておったが、やはり子供はいつまでも子供。少し、諭しておったところなのじゃが。
軽やかに身を翻し、吹き荒れた陰気の嵐によって位置のずれてしまっている御簾の向こうから室内を覗きこもうとしたらしい時子の許に、清盛は駆けていく。そして、状況を将臣や重衡からすればあまりにもかけ離れた感覚で語りながら、なにげない様子でようやく、自分が見向きもせずに通り過ぎてきたものを、振り返る。
御簾の陰から踏み込んできた時子が息を呑むのと、清盛が呟くのは同時だった。
「……とも、もり?」
ごくごく不思議そうな声でぽつりとつぶやき、わけがわからないとばかりに眉間に皺を寄せ、そして困惑したように小さく首を振る。
清盛が振り返った先に、時子が見やった先に、映るのは唇を噛み締める将臣の背中と横顔。真っ青になって座り込む重衡。そして、その重衡の腕の中で、いっそう血の気の引いた顔色を曝してぐったりとその双眸を閉ざしている、知盛。
「重衡殿、いったい、これは?」
急いた様子で清盛の腕から抜け出し、慌てて距離を詰める時子の足取りは危うい。よろよろと、しかし必死になって、辿り着いた先でそれこそ崩れるように座り込みながら、慌てて知盛の顔色を探る。
「重盛、どういうことじゃ? 知盛はいかがした? なぜ、あのようなところで寝ておるのじゃ?」
時子にはもちろん、今回の将臣達の目論見は事前に話をしてあった。ゆえに、混乱の極みでいささか言葉が足りなくなっている重衡の説明でも、大方の事情を察せたのだろう。青褪めながらも表情を引き締め、すぐさま重衡と将臣をと振り返る。
「ここに、人を呼んではならないのですね?」
「叶うなら」
「こんなの、郎党連中には見せられねぇ」
「なれば、重衡殿。私の局に――」
「我の寝所に用立てよ」
言い差した時子の言葉を遮り、響いたのは掠れた清盛の声。いつの間にやってきたのか、時子の反対側から知盛の顔を覗きこむ表情には、見覚えのある慈愛に根差しているだろう憂いが浮かんでいる。
いつの間にか日が暮れた薄暗い部屋の中で、褥の脇に座り込む背中は小さい。この人の背中は、こんなに小さかっただろうか。背丈の大きさではなく、その存在感を追いかけてきた。ずっとずっと、追いつけなかった。どれほど彼が誰よりも愛した息子の影を纏おうとも、決して追いつくことなどできないと思っていた偉大な背中が、こんなにも小さい。
「しばらく安静だってさ」
溜め息まじりにならないよう意識しながら、将臣はそっと、医師から伝え聞いた言葉を紡ぐ。
「無理、させてるからな」
続けざまに零れ落ちたのは、堪えようのなかった将臣の真情だ。わかっている。誰もがわかっていて、誰もが知っていて、けれどその現実に甘えざるをえない、現状。
「……吾は、何をしておったのだろうか」
「え?」
ぽつりと落とされたのは、これまでの清盛からは想像もつかないような呟きだった。咄嗟には言葉の意味を量りかねて、将臣は思わず声を上げてしまう。
「狂うつもりはなかったが、吾もやはり、どこか、狂っておったのかもしれんの」
眼前で眠る息子を見つめながら、清盛はどこを見ているのか。それは、たった三年ほどを共にしただけの将臣には、わからない。話に聞くばかりの、遠き日のことだろうか。いつ黄泉比良坂を降ってしまうかと誰もが恐々としていたという、けれど誰もの慈愛に狂気など影も形もなかった、ただ、幸せな。
小さく小さく息を吐いて、清盛はその見かけにはそぐわない、ひどく老いた仕草で腰を上げる。
「好きにせよ」
そのまま将臣のことを一瞥もしないまま廊へと通り抜け、残されるのは最後の意地のような言伝。
「ただし、忘れるな。何でもすると吾に言うたこと、決して」
そうしてすっかり暗くなった部屋の中、知盛の眠る褥の枕辺には、あるいはすべてのきっかけだったのかもしれない、かつての神の名残りたる逆鱗がぽつりと残されていた。
告解をあなたに
(だって、わたしは知っていたはずなのだ)
(特例などという言葉は、甘い甘い、罠にすぎないと)
Fin.