現を夢見る蝶の夢
雑兵よりは上等、しかし決して身分ある将としての扱いではない牢に入れられ、傷の治療を受けながら尋問をやり過ごす。既に習慣として体が覚えつつある日常を崩しにやってきたのは、傷も大分回復してきたある日の夜更けの訪問者達だった。
落ち着きのないざわめきに浅い眠りから引きずり出され、はそっと、息を詰めて集う気配の行方を探る。覚えのない相手。ならば、弁慶が不意を衝きにきた可能性はない。彼は実に厄介な難敵ではあるが、決して不穏な空気を纏いはしないのだ。
ざわざわと、それはとりとめのない悪意。仮にも敵将なのだから、好意を寄せられていないのは明白。何事かと、巡る思考回路はごく冷静にひとつの可能性を弾き出す。
敵で、捕虜で、女の身。となれば、これまでそれがなかったのが不思議で仕方ない仕打ちが待っているのは想像に難くない。
尋問としての常套手段だろうに、あえてそうしようとしなかった弁慶の真意はうかがえない。ただ、ついにその時が訪れたのかと、腹を括ると同時に身を固める。
覚悟と実感は、決して、並び立つものとは限らないのだ。
牢の入り口をじっと睨み据えるの視界にやがて入り込んできたのは、三人の男達だった。雑兵ではない、だが、決して上位の武将でもないだろういでたち。自分はどこまでも"半端"という表現に縁があるらしい。そう内心で小さく皮肉と自嘲の笑みを刻みながら、視線はいっそうの鋭さを増す。
「このような刻限に、いったいいかなご用件ですか?」
「……起きていたなら、ソレを期待していたんじゃあないんですかね」
冷ややかさを篭めた、乾き切った声で応じたに、男達の下卑た笑いは変わらない。侮られ、蔑すまれていることはわかるが、には無言と無表情で不快感を示すことしかできない。
むざと殺されることは考えにくい。即刻の処断がなされなかった以上、その身が生かされることに意義を見出されたのは確か。だが、それは弁慶のような、軍や戦を俯瞰できる立場の人間にのみ通じる理屈。彼らのような一般兵にとって、はただひたすらに、"敵"なのだ。
「へぇ、なるほど? 新中納言殿ご寵愛ってのは、あながち嘘でもなさそうだ」
「戦に出てるにしちゃあ、綺麗ななりをしてる」
舐めるような視線は、あからさまな情欲を孕んで絡みつくようだった。色濃く立ち上る牡の気配に、せめては呑まれまいとは毅然とした態度を貫く。
「恨むんなら、のこのこ戦になんざ身を投じた、自分の馬鹿っぷりを恨むんですね」
いやらしい笑いを浮かべた男の手が、ついに牢の入り口にかけられる。ぞくりと背筋を走った恐怖と嫌悪をなだめ、意識をひたすら自身の内奥に向ける。にとって、不可避の現実に泣き叫ぶという選択肢は存在しない。この恐怖を、嫌悪を。身を守らんと鎌首をもたげるだろう神の慈悲に決して明け渡さないことこそが肝要。
「下手な抵抗をしなければ、極楽につれていってさしあげますよ」
「……ッ!」
つと、頤を捉える指に息を飲み、それからは視界を閉ざしてせめてもの抵抗にすべてを拒絶する。体を這いまわるいかな感触も、認めさえしなければいいのだと己に言い聞かせて。
喪失への恐怖心こそが、最大の砦にして最後のよすがだった。
いくら意識を向けまいと努力しても、五感は潰せない。おぞましさに背筋を粟立て、悔しさに歯を食い縛り、本能的な恐怖心に蓋をする。
失いたくない。失うわけにはいかない。
必死に自身に言い聞かせる声が切実さを増すにつれて、身の内から理性の殻を喰い破らんとする衝動が増していく。より強い力でもって暴れ出そうと、脅かすすべてをはねのけようと唸りをあげる存在を、はひたすらに抑えつける。
「――ッ!」
意思とは関係なく、肉体は生物としての本能に沿って跳ねて揺れる。反射的にせりあがってきた悲鳴を、吐息に散らしてやり過ごす。そして、代わりに声には出せない嘆願を紡ぐのだ。
助けて。どうか助けて。
求めることはできない。これは、すべて己の選択の帰結。責任は自身に。結果は自身に。誇りも絶望も欠片だって誰かに譲り渡すつもりはないし、そんなこと、あまりにも無様過ぎてできようはずもない。けれど、縋ることは許してほしい。
助けて、どうかわたしを助けて。
決して禁を破らないよう、この身を縛る枷となって。
泣いて、啼いて哭いて。
皮膚の下で沸騰する激情を必死に殺して、嵐が過ぎ去るのをひたすらに待つ。
この力を恐れ、この力をひけらかさないわたしを、あの人は認めてくれたから。この力によって、あの人を、あの人達を危難に曝す可能性を知ってしまったから。だから、はひたすらに秘す。それが彼の命であり、それが彼との誓いであるから。彼を失う恐怖を糧に、彼の与えてくれた約束を胸に。
秘せと、そう命じた彼は、恐怖を糧にすることを許容してくれた。だからきっと、その恐怖を忘れないために、やはり与えられた「必ず戻れ」との命を理由とすることを、どうか許して欲しいと願う。
あなたの許に帰りつき、あなたの望む終わりに、あなたの願う未来に、きっと一緒に辿りつくために。
は希望をも恐怖へと変え、たったひとつの、願う道のためにすべての衝動を抑えつづける。
ひときわ激しく与えられた衝撃に目を見開き、すっかり嗄れてしまった悲鳴に唇をわななかせ、流れ落ちた生理的な涙の冷たさに指先が宙を掻く。恐怖と怒りと悲しみと恨みと、そして絶望と。
今にも体の支配権を奪おうとする慈悲に抗し、捨てられない願いに縋りつく。けれど、もはや抵抗は適わなかった。制止の手を振り切って全身から立ち上る圧倒的な存在感に、せめては彼らを傷つけるような結果だけは残すまいと、最低限の制御に全身全霊を傾ける。
「な、なんだ!?」
「ひぃっ、化け物――」
「体が動かんぞ……!」
転がされ、束縛は解かれたものの体の自由などきこうはずもない。手繰り寄せたぼろぼろの狩衣を気休め程度に羽織り、は早く誰か、この場を打開できるだけの存在がやってきてくれないかと祈るばかり。
最後の制御をも失い、腰を抜かす男達に今にも牙を突き立てんとする慈悲は、あまりに透明で容赦ない。そして、彼らを憐れむには、は己が身に降りかかった災厄を理不尽と詰る感性をもって生き過ぎている。曝すことへの恐怖はある。誓いを守らんとする意思もある。けれど同時に、留めおく意志も、そろそろ限界なのだ。
だから、は己を殺す。殺して、沈めて、そうしてでも手放せない可能性のために。
そっと瞬いたまなじりから流れ落ちた涙は、様々な感情に冷え切ったはずの肌を伝ってなお、凍てつくように冷たい。その生々しい感触に、はひたすらに、自分の置かれた境遇が決して悪夢ではないことを言祝いでいた。
現を夢見る蝶の夢
(夢であればと思うこの絶望が、現であることを慶びましょう)
(醒めても終わらないここが現実なら、あなたとの約束もまた現実)
(だってわたしは、わたしを殺してでも、あなたに還る可能性を諦めきれない)
Fin.