朔夜のうさぎは夢を見る

君死にたまう、ことなかれ

 見目のよく似た兄弟であることと宮中にある折りに見知った暦を利用し、大勝利を収めた水島での勢いのまま東へと上り、ここ室山にても平家軍は快勝を納めた。心地よい疲労感と納まる気配のない興奮でざわめく陣中にて、しかし重衡は、あるべき人影を探して忙しなく見えない程度の足取りを心がけながら、兵達の間を渡り歩いている。
 求める人影はふたつ。ひとつはこの陣にて初の総大将を見事に務め上げた、年下の“義兄”。それからもうひとつは、総大将の存在を広く兵達に知らしめるための芝居を己と表裏で担った、ひとつ違いの実兄だ。
 実兄はまあ、陣中で顔を知らぬ者はないだろうし、実力のほどもその気紛れさもよくよく知っている。それに、どうせ傍近くには乳兄弟である家長が控えているだろう。たとえ即座に見つけ出せなくとも、心配する要素はあまりない。
 だが、義兄は違う。彼の顔を見知っている者よりは、恐らくまだ見知らぬ者の方が陣中には多い。纏う衣や具足の意匠から自分達にも等しい身分と察されるのは簡単だろうが、だからこそ、単身でふらふらされては不信感を齎しかねない。どこかでまかり間違って不審者扱いでもされようものなら、この上なく面倒な事態になる。
 兵の様子を見やり、程よく声をかけながら足を運び、視線ばかりは油断なく周囲をじっくり検分する。兄弟の人数多しといえ、気紛れさが際立つ面々とばかり縁が深くなるのは、巡り合わせなのか、己が性格ゆえなのか。


 先に辿り着いたのは、義兄の許。怪我人が集まる一角で同じように地べたに座り込み、おおらかな笑顔で兵達の話を聞いているようだった。
「こちらにおられましたか」
「お、重衡! お前も混ざるか?」
 呆れの色はどうしても滲んでしまい、けれどその在り方にすっかり絆されてしまったどこまでもやわらかい声音で呼びかければ、周囲の兵は恐縮した様子で必死に頭を垂れるし、当の将臣はあっけらかんとしているし。
「皆さん、無理はいりませんよ。傷に障るでしょうから、どうぞ楽に」
「ああ、そうだな。ほら、怪我人は自分を気遣うことを一番に考えてろって」
 とりあえず、まずは問いかけに応じるよりも優先すべきことがある。頂に立つ者は、己に従う者への気遣いをも含めて器が決される。軍は、一人では構成できない。一人一人、すべての者に気遣いを行き渡らせることが不可能であることは重々承知の上だが、手が届く範囲、目が届く範囲での気遣いを忘れては、瓦解などあっという間のことなのだ。


 やはり、将臣のことは個としての認識はあれど、彼が負うこととなったしがらみについてはまだまだ浸透していないらしい。重衡を前にすればその背に垣間見える立場やら血筋やらを含めて反射的に頭を下げるようだが、将臣にはまるで友か何かのように接している。
 その関係性を奪うのは、決して心地良いことではない。それは彼の美徳であり才であり、かけがえのない財産だ。けれど、同時にこうしてあっという間に周囲に馴染んでしまう彼であると知らしめた上で、将臣の立場を宣するのは非常に有効であると怜悧な思考が囁いている。躊躇いはほんの一瞬。縋るようについ視線を滑らせた先で、わかっているとばかりに淡く苦笑する、紺碧の双眸。
「しかし、天幕を離れるのでしたら、せめて言付けなり置いていただけませんと」
「もしかして、探させたか?」
「大将の身さえ守れない腑抜けとの評は、嬉しいものではございません」
「悪気はなかったんだよ。すまねぇな」
 座り込んだままの将臣に視点を合わせるようにして膝を折り、淀みなく言葉を交わせばざわめきの後に沈黙。大将と、重衡がそう呼ぶこと。その意味を考え、目の当たりにしている現実から想像だにしなかっただろう事実を察した兵達が、先よりも慌てた様子で地に頭をこすりつける。


「だーから、無理はすんなって! 怪我人なんだから、妙な姿勢になって、傷に響いたらどうすんだよ」
「し、しかし、よもや御大将とは露知らず」
「じゃ、その大将命令だ。いいから顔上げて、楽な姿勢になってろ。お前らの傷を俺のせいで悪化させたんなら、どんだけ使えない大将だって話になる」
 さばさばと気安い口調でありながら、深い思いやりに濡れた言葉は胸の奥にじんと染み入る。恐る恐る顔を上げる兵達の瞳に敬愛の念が広がっていくのを、重衡は静かに息を詰めて見やっている。
「あー、でも、あれか。俺がここにいたんじゃ、落ち着かねぇか」
 困ったように髪をかきあげて、へらりと苦笑を浮かべながら将臣は俊敏な動作で腰を上げた。どうやら、戦闘にてさほど大きな傷を負ったわけではなかったのに、という重衡の記憶は正しかったらしい。動きに淀みはなく、周囲を見渡す視線は仲間を慈しみ、守らんと願う強く優しきそれで。
「薬草が足りてねぇって話は、知盛に余りがないか聞いとく。布はどうにかしてみるから、惜しまずきっちり手当てしとけよ?」
「はっ」
 どうやら、重衡が辿り着くまでの間、別に将臣は雑談にばかり花を咲かせていたわけではないらしい。確かに、仰ぐ主の違いから、同じ戦に身を投じたとはいえ集う場所に暗黙の線引きはなされている。こちらには重衡を仰ぐ面々が。なれば、実兄は己を仰ぐ面々の様子見にでも行っているのだろうか。


 許されたからにはと多少楽にしているようすはあったが、先までとはあからさまに一線を画する態度で応じられ、将臣はわずか切なげに目尻を細めた。
「まあ、ある程度はしょうがないのかもしれないけどさ」
 けれど彼は、それでもなお身分など見ぬふりをして同じように扱えとは言わない。立場ゆえにひれ伏せとも言わない。線引きは致し方なし。けれどきっかけにその乖離がなければこそ、重衡よりはほんの少しだけ近い距離感を、ひどく愛しげに見つめて。
「さっき話してたことは、全部本当だ。立場とか、役割とか、ちと違うとこもあるけど」
 はっと、弾かれたように数多の視線が将臣に突き刺さる。苦しげに、愛しげに、どこまでも真摯に。ひたと返される双眸に兵達が呑まれていくのを、肌で感じ取る。
「一門を守りたいって気持ちが同じなんだから、俺達は――同志だ」
 ああ、惜しまれる。どうして兄がこの場にいないのだろう。ここでこうして抱く感慨を、ぜひともあの兄とも分かち合いたかった。そう思う一方で、重衡は己の僥倖にひたすらに感謝する。こうして自分を仰ぐ郎党らが、自分が信じた相手を認めていく姿を目の当たりにできることを。自分達が同じ志を持っていると、確信できる幸運を。
「だから、一緒に頑張ろうぜ」
 俺も、なるべく重衡に迷惑かけねぇように、頑張るからさ。
 最後にそう混ぜ返すことで心地良い緊張に張り詰めていた空気を気安いものへと塗り替えて、将臣はからりと笑って踵を返す。呆然とその背を見つめる郎党らをぐるりと見渡す時間を置いてから重衡もまた振り返って、空いてしまった距離を三歩で詰める。
「……あんな感じで良かったか?」
「それはもう」
 視点は進行方向に据えたまま、低めた声でかけられたのはどこか気弱な問いかけ。先ほどまでの堂々とした姿からは想像しえない、けれどこれもまた愛すべき彼の一面。
「上々でございますよ」
 すいと口の端を持ち上げて声に滲ませた笑いがいつか、背後から響く“還内府”を讃える声から将臣の心を守るのに役立てばいいと、重衡はどこか切なく祈っていた。


(罪深きものは我らの願い)
(彼らが祈り、彼の慈愛)

死にたまう、ことなかれ

(せめてこれだけは優しき守りと)

Fin.

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