朔夜のうさぎは夢を見る

君に願いを

 たとえ同じものでも、視点が変われば見え方も変わる。当然のことなのだが、あまりにも当たり前すぎることに対して、ヒトは実際に遭遇するまでその存在自体を忘れ去っているものだ。
 “ありえない”なんて『ありえない』。そのことを将臣が思い知ったのは、体感時間にして約二年前の冬のこと。当たり前の、ごくありふれた日常から切り離され、そして今や新たな日常を壊したくなくて非日常にこそ手を伸ばし続ける日々が降り積もる。その姿をある意味誰よりも間近で見つめ続け、物好きなことだと、どこか悲しげに嗤った男がいる。
 物好きなことだ。お前には、それ以外の選択肢こそが数多存在しただろうにと。そう嗤っていた男は、けれど自分よりもよほど物好きで人の良い大馬鹿であり、切ないほどに優しく日常の尊さを体現する大賢人でもある。


 元より訪ねることの多かった屋敷だが、同胞がいるとわかれば気やすさには一層の拍車がかかる。奴はこれを警戒していたのだろうなと思いもするが、どうせ忙しさの中でどんどん頻度は落ちていたのだ。最盛期に比べれば少ないものだと思い至ってから、将臣の中から遠慮の二文字は綺麗さっぱり拭い去られた。
「こんにちは!」
「おいでませ、還内府殿」
 形式的な側面が強いとはいえ、総領は忙しい。さあらばこそ、実質的な側面の多くを担ってくれている知盛の忙しさは言わずもがな。畢竟、三度に一度くらいの割合でしかぴたりと出くわすことはなく、その分の相手はすべてこの武将でもある若き女房に任せることとなっている。
 彼女自身も、そして脇を固める家長や安芸を中心とした家人達も心得たもので、知盛の不在時に将臣が訪ねた際には、いつの間にかあの娘こそが対応に出るようになっていた。他愛のない世間話をしたり、物騒な情報交換をしたり、あるいは“歴史”について語り合ったり。話題は尽きることもなく、互いの距離は順調に縮まっている。さて、ではそろそろ切り出してみるかと将臣が判じたのは、彼女が呼び掛けに“還内府様”から“還内府殿”という呼称を使うようになったからだった。


「胡蝶さん、俺のことは名前でいいぜ?」
 彼女を名で呼ぶわけにはいかない。将臣に他意はないし、彼女もそれをわかってくれるだろうが、わかっても面白くないと感じるだろう男を、二人はあまりにもよく知っている。
「ですが、仮にも一門が総領たる御方に、そのようなまねはいたしかねます」
「必要な時があるってのは、俺もわかってる。だから、それ以外の普段の話」
 戸惑うように返されたのは、あまりにもありふれた理屈。だから将臣も何度となく口にし続けた理屈を紡ぎ、相手の出方をうかがう。
「必要もそれ以外も、お立場をお考えください」
 眉根を寄せ、小首を傾げる姿はどこかあどけなくすらあるが、彼女はこれでいて歴戦のつわものでもある。女房としての振る舞いにもまるで隙はないのだが、将臣に対する呼称から“様”付けが抜けた今、本当に数えるほどの相手を除き、その主たる知盛よりも上に置いた呼びかけさえしようとしないほど芯の通った、あるいは強情な一面がある。
 将臣にとってそうであるように、きっと彼女は地位や立場に敬意を払う心はあれど、その前に無条件にひれ伏す思いは微塵もない。だからこそ、彼女にとって至上の存在は知盛なのであり、たとえ相手が院や今上帝であれ、礼は尽くしても真の意味での敬愛が至高に置かれることはない。
 それは、家長をはじめとして多くの郎党やら重衡やらの姿を見ていた将臣の磨いた慧眼ゆえに思うこと。決して唾棄することはない。それは忠義であり、彼女の場合はきっと、恋心でもある。そして、重衡や経正に対してある程度打ち解けた様子で相対していた姿を見てしまった以上、今の自分に対する態度には“知盛の家人”である己の立ち位置を量った上での、形式的な経緯がどうしても差し挟まれているように感じるのだ。


 無論、それもまた時に必要とされる要素であることも、将臣はわかっている。わかってはいるが、けれど同時に彼女は将臣にとって唯一の“すべてをわかってくれるはず”の存在でもある。時代の違いによる戸惑いも不安も、未来への懸念も、すべて。なればこそ、筋違いと察しながらも頼りたくなる思いは抑えきれず、立場によって隔てられて終わるような、遠い関係ではいたくないのだ。
「立場って言うけどさ、だって、俺は胡蝶さんにとって“黄泉より還りし小松内府”なのか?」
「それは、違いますが」
「なら、“還内府”って呼び方はおかしいだろ?」
 理屈には屁理屈を。返ってきた予想通りの言葉にすかさず畳みかければ、きょとと目を見開かれる。その様に、いたずらが成功したようでついにやりと笑ってから、そういえば覚えのある遣り取りだと将臣は記憶を手繰る。
「俺にとって、あんたは““さんだけど、それ以上に“胡蝶“さんだ。それに、名前で呼ぶとアイツに斬られっからな」
「わたしとて、いらぬ流血沙汰はごめんです」
 溜め息交じりに混ぜ返す声のやわらかさに、そして将臣は自分が重衡らに近い位置まで招き入れてもらえたことを察する。


「では、知盛殿を倣って、有川殿とお呼びしましょうか?」
 わたしは“有川くん”でもいいのですが、いまさら言葉づかいを崩すのも違和がありますし、そうなるとこの呼び方にこそ違和がありますし。
 妙に懐かしい呼称に微かな郷愁と彼女への同病相憐れむ思いが湧くが、それにかまけるつもりなど毛頭ない。同じ色がよぎり、けれどすぐに消し去って凛とした光を取り戻した夜闇色の瞳に、だから将臣もわらう。
「そんな特殊な呼び方、知盛だけでいい。よければ、将臣って呼んでくれ」
「なれば、将臣殿と」
 名は個を、姓は地位やら形式やらを示すのだと教えてくれたのは重衡だ。知盛に特に深い思惑がないことは確認済みだが、知ってなおその呼称を増やすには、将臣はあまりにも呼称の示す地位の力を知りすぎた。
 そういえば、これは自分が知盛と名乗りあった時の遣り取りだ。今ならば多少は理解できるとんでもない肩書きをいくつも背負った男は、だからこそ、自分に異称の意を問い、名を許したのだろう。違うならば呼ぶなと、それは命令でありながら懇願。これ以上の枷はいらないのだと。きっとそれこそ立場ゆえ、あからさまに声に出すことの憚られる、倦んで疲れた男の真情だった。
 今ならばわかる。その思いも、願いも、そして気遣いも。思い至ってつい「バカなやつ」とそのわかりにくい渇仰と優しさを思い。将臣は名をこそ呼んでくれる貴重な場を得られる喜びに、深く共感していた。




(呼んで、呼んで、呼ばないで)
(お前の皮肉の奥の祈りを、そして俺も、思い知る)


Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。