唐紅に
ぞくりと肌を粟立たせたものの正体など掴めないまま、はただすべてに魅入られていた。同じ馬にまたがり、の背中で悠然と手綱を握ったまま、彼がどこを見ているかなどわからない。けれど、ここにつれてきてくれた理由は眼前に広がるこの絶景なのだと信じている。
秋も半ばにさしかかり、不意に訪れた冬の先触れのような風花が降ったのは四日前のこと。年中行事のように異常気象を叫ぶ世界で暮らした時間の長いは、天候不順を諾と受け入れることに慣れてしまっている。それゆえ、ただ単純に今年は冬が随分と早い、と思っていたのだが、どうやらそれはありうべからず判断基準だったらしい。
冬支度をせねばなるまいかと問いかけた女房頭殿に、このようなこと、めったにない。続くならばともかく、気候が戻ったならば特に気に留めずとも構わない天の気紛れだったのだろうと、笑いながら諭された。ゆえに、目の当たりにするこの光景は、予想だにしていなかったのだ。
「色づく様を歌には詠めど、この鮮やかさはいっそ恐ろしいと……そう、倦厭される向きも、ある」
あえて聞かせるつもりもないのだろうが、耳を傾けたとて咎められはすまい。そんななんとも絶妙な声量で、彼はぽつぽつと言葉をこぼす。
葉の色づくは、冬の訪れを思わせる。冬は厳しい。それは、雲上にても同じこと。雪景色もまた美しいが、ただ愛でるには、切実に過ぎる。ゆえに、見やるものの心にあわれを呼ぶ。だが、それをもっても俺は、この壮麗さをこそ見やらんと思う。
「散ると知りて、なお鮮やかに染むのなら。これほど心憎いことはあるまい?」
そして声は風に吹き散らされ、重厚な紅の嵐に飲み込まれていく。
目前の木々も、奥に透ける都も、その向こうに見える山々の裾も。すべてが真っ赤に染まっていた。錦のよう、という喩えなど、修辞でしかないと思っていたのに。
山の裾野は真っ赤で、中腹は深い深い緑。いっそ黒々とした。そしてその上には岩肌と思われる浅い茶色が続いて、頂に純白。
息を呑むほどに鮮やかな、秋から冬への、移ろい。
「お前も、気に入ったか?」
今度は確かに向けられたとわかるどこか得意げな声での問いには、黙然と頷くことしかできなかった。語彙が足りない。まったく、この美しさにいかに感動したか、この光景がどれほど得がたく素晴らしいものか、説明するには言葉が見つからないのだ。
彼にとってこれはごくごく当たり前の、毎年繰り返し見る光景なのかもしれない。けれどには違う。これほどの美景は、はじめてみるのだ。
「信じられない」
ああ、こんなにも世界とは美しいものだったのか。それを知らずに自分は生きていたのか。それを失って、あの世界は続いていく。取り返しようなどない。取り返すには、あまりに多くのものを害いすぎている。
もう戻れないと覚悟した。戻る術は見つからず、戻るには自分で枷を履きすぎた。
でも、どこまでもいつまでも、の故郷はあの世界でしかありえない。だから、惜しむ。
知らずに終わるはずだった喪われてしまったものを目の当たりにしたすべての瞬間において、はただすべてを惜しむ。手に入れる代償は、失うこと。そんなごく当たり前であまりにも冷厳で残酷な不変の法則を思い知って、それが切なくて、惜しむ。
どちらが正しいか、など知らない。先人とて、失うことを覚悟して手を伸ばし続けたわけではないはずだ。ただ、前へ、高みへと志を掲げた結末というだけのこと。
無知であることは罪だというけれど、知ることは時にとても辛い。知らずにあった自身を思い知らされることも、知らずにあった事実を思い知らされることも。
恐らくまったくもって予想外で、意味がわからないだろう返答を紡いだというのに、彼は何を問うこともしない。問い返しはしないし、問いただしもしないし、不機嫌そうな貌をするわけでもない。
黙って、彼では紡ぎようもない感慨の行く末を、待っている。
「まるで、夢みたい」
もしかしたら、彼はその言葉から何かを察してしまうかもしれない。これまでに、は彼に多くの断片を垣間見せている。
けれど、たとえ知られたとしてもごまかす理由はないし、その必要性は感じなかった。ただ、こぼれるままに思いを言葉に託す。
それこそ夢想だとは知っているけれど、もし仮にこの"夢"から醒めての知る"現実"を目の当たりにしたとしても、きっと同じ言葉を紡ぐのだろうという確信があった。そこに好悪や悲喜のどういった感慨が篭められるかはもうわからないが、それだけは確信できる。
失われる以前も失われた先も、どちらも知ってしまった今、にとってはすべてが信じがたい現実であり、得がたい夢となったのだ。
(でも叶うなら、この夢をこそ見続けていたい)
(混じりけなどなく鮮やかに、艶やかに)
(色濃く染んで、生きてみたい)
唐紅に
Fin.