朔夜のうさぎは夢を見る

彼方の光

 戦功には、何を望めます?
 硬く張り詰めた声で、胡蝶は呻いた。
 仮にわたしが戦列に加わったとして、怨霊に対する有効な手であるとして。あなた方はそれでいいでしょう。では、わたしは?
 匿っていただく必要などありません。わたしはあなた方の手など借りず、一人で生き抜けます。ここで戦って抜け出すことも、追手を撒くことも、返り討ちにすることも。わたしにとって、あなた方に付き従って戦うことへの利がどこにありますか?

 僕らは怨霊に対抗する術を持ちません。このまま僕らが平家と戦い続けたところで、不毛なただの消耗戦。怨霊は生まれ続け、恨みはさらに募るでしょう。けれど、あなたが加わってくださるなら話は別です。
 怨霊を食い止めることができれば、戦も早く終結します。生きている人を、これ以上いたずらに喪わずにすむかもしれません。それは、あなたも望むことなのではありませんか?

 終わらせる気があるのですか?源氏方の平家への恨みの深さを、わたしは知りません。けれど、決して浅いものではないと察しています。
 命を奪うのは忍びないと配流され、決起したのはどなたです? 出家させれば大人しくしていようと、寺に預けたのに抜け出したのは?
 そうまでして、平家を滅ぼしたいのでしょう? 終わらぬ憎しみに身を焦がしているのは、源氏方ではありませんか。だというのに、いったいわたしに何をせよと? わたしに、あの一門の方々に、刃を向けろと言うのですか?

 戦功さえあげたなら、と。冷ややかな問答に口を挟んだのは九郎だった。
 さっき弁慶が言った通りだ。今の俺たちに、怨霊に対抗する術は何もない。だからこそ、もしお前が戦列に加わり、怨霊に対する絶対的な戦力としての戦功をあげたなら、それはどんな先駆けの功よりも厚く遇されるだろう。それこそ、お前の言葉は鶴の一声となり、兵の信奉を一心に集め、俺や、あるいは兄上でさえ無視できないうねりを生むかもしれない。

 そんな曖昧な可能性を信じろと?

 ではあなたは、このまま目を瞑るのですか? このまま怨霊を野放しにすれば、もはや平家は滅び以外の道を辿れなくなるのに?
 これは、お互いの利に叶う選択だと思いますよ。僕らは負けるわけにいかない。そして君は、僕らを勝たせすぎるわけにはいかない。
 今の君は無力です。ですが、僕らのこの策に乗れば、少なくとも君は可能性を手に入れられる。君の願う未来への、手がかりを掴み取れる。違いますか?

 嫌な人。あなたは何を知っていると言うのです?

 見かけたことがあるだけですよ。君と新中納言殿が紡ぐ、暖かな日常をね。だからそこから想像しました。君はきっと、平家一門の滅びを阻止するためなら、非情な決断さえ下すだろうと。

 あなた方は、平家を滅ぼしたいのではないのですか? なのに、なぜそんな、矛盾した提案をするのです? わたしのことを、バカにしているのですか?

 違う、そうではない。
 別に、滅ぼしたいわけではない。ただ、現状では両家が並び立つことが非常に困難だというだけの話だ。ゆえに覇権をめぐって衝突は避けられない。だが、雌雄さえ決してしまえば、無駄に血を流すような馬鹿げた真似は誰も望まないだろう。
 俺が戦うのは、兄上の目指す世を実現するためだ。その道行きに平家が立ちふさがるから、立ち向かう。
 個人的な恨みなどない。
 確かに、父の仇ではあるんだがな。敗戦の帰結としては、実にありふれている。その果てで目こぼしをされたことを思えば、ただひたすらに平家憎しと叫ぶことなどできない。
 甘いと、言われるのだろうがな。
 ただ、今の世は歪んでいると思う。なぜ武士がかくも粗略に扱われなくてはならない? 貴族だけが尊いのか? そうではないはずだ。
 清盛公は、おそらくその不満を自分達が公達の仲間入りを果たすことで解消しようとしたのだろう。だが、それでは報われないものが数多に取り残されている。
 兄上は、鎌倉公は。そんな東国武士の不満を聞き、決起なさったんだ。
 新たな世を作るのに、今の平家は障害にしかならない。滅ぼしたいか否かではない。源氏は、平家と同じことを、平家と異なるやり方で遂げようとしているだけだ。
 俺達は、俺達の強さを世に知らしめ、認めさせないといけない。そのための道として、両家はぶつかり合わないといけない。
 その中で、怨霊などという無茶苦茶なやり方を示されたから、対抗する力を求めただけだ。怨霊さえいなければ、こんなことを言い出したりなどしない。
 俺は、本当ならば己の力だけで戦いたかった。そうすることが礼儀だと思うし、かつて仰ぎ見、父とも兄とも呼んだ方々に、俺自身の至った思いを知って欲しかった。

 一軍の将としては致命的でさえあろう告白に、胡蝶はなんだか毒気を抜かれて瞬きを繰り返した。
 九郎の言葉に偽りは感じられない。ゆえにこれは彼の本心。鎌倉公が同じように考えているかについては限りなく怪しく、むしろ逆だろうというのが胡蝶の見解だったが、騙されてみようと腹を括った。

 くしくも彼らが言ったのだ。戦功を立てれば、胡蝶の目論見が叶うかもしれないと。
 それもまた真理。ならばのってやろう。そして呑んでやろうではないか。
 だってそれ以外に道が思いつかない。
 ならばその道を行くだけだ。たとえどれほど不利な賭けであるかをわかっていても。

 しばらくの瞑目を経て、胡蝶は恐ろしいほどに落ち着き払った声で言葉を紡いだ。
 少し、考える時間をいただけますか? あまりにも唐突すぎて、だんだん混乱してまいりました。
 猶予が欲しいと言いつつ、声の悲壮さは彼女が至るのだろう覚悟を告げる。彼女が胸の内に抱え込むのだろう、絶望と背中合わせの渇望を知る。

 九郎にとって、胡蝶を軍に引き入れるのは危険極まりない賭けだった。
 自分の目で剣捌きを見たわけではなく、怨霊に対抗できるという話も、どこまで信じていいものやら。
 無論、朔が偽りを述べていると疑っているわけではない。そんなことをする必要はないし、彼女の性格からしても、するとも思えない。ただ、可能性を疑ってしまう。
 これが、平家の間諜を潜り込ませるための巧妙な罠でない保証はどこにある?
 朔が目にしたという異能も含めて、すべてが仕組まれている可能性は?
 彼女が平家の者であるなら、それもすべて辻褄が合う。だいたい、こんな唐突に、中途半端な時期に、怨霊に抗する術がこうもたやすく手に入るという状況を、九郎は受け入れ難く感じている。

 しかし、それを口にし損ねてしまった。なぜなら、彼女の絶望の色は、演技というにはあまりにも濃すぎたのだ。
 九郎はあの気配を知っていた。絶望が深すぎて憎しみに身を焦がし、戦場の狂乱に飲まれてケダモノと化す兵など、飽きるほどに見ているのだ。彼女は、絶望の淵で従軍を志願し、動機を語るうちに憎しみに染まっていった兵達と、同じにおいがする。
 まだ踏みとどまってはいるようだが、たとえ小さなものでも、何かきっかけがあればすぐさま憎しみの底へと堕ちるだろう。憎しみの向かう先はわからない。けれど、ぶつける先が自分の身内にならないだろうことは不思議と確信できていた。

 彼女に絶望をもたらしたのは、源氏ではない。少なくとも、どうやら何も知らなかったらしい彼女にとって、怨霊を生み出したきっかけは平家のうちにある。よって、彼女の憎しみが向かうとすれば、それは平家だ。己を絶望に突き落としたものに対して、憎しみはぶつけられる。だから、怨霊を生んでいるわけではない源氏は、彼女の憎しみの対象にはならない。

 視界の隅でほくそ笑む弁慶の表情からも、九郎は己の確信が的外れでないことを察し、なんだか複雑な気分になる。
 先の言い分に偽りはなく、九郎は己の戦う理由に誇りを持っている。知らない事情も山ほどあろうが、自分が知りたいことは最低限に知っている。よって割り切ることができている。だが、彼女はどうだろうか。

 結局はいたちごっこなのだ。
 平家も源氏も覇権を譲れない。だから決着がつくまで戦乱は果てない。戦乱が果てないから、戦力が限りなく必要になる。だから平家は怨霊を生む。それに対してさらに不満を募らせる勢力を巻き込んで、源氏は戦う。
 確かに、怨霊を生むのは間違っているのだろう。人道にもとると思う。だが、そうやって一方的に糾弾していいのだろうか。
 きっかけは、ありもしない親王令旨を持ち出した以仁王だったはず。その時の朝敵は源氏だった。それが、気づけば令旨は院宣によって裏付けられ、朝敵は平家にすり替えられている。
 いまや何がすべての始まりで、どこが源流であったのかを論じるのは不毛なことだろう。それでも思う。怨霊が生み出される理由の一端は、源氏にもあるのだろうと。それを告げず、まるで平家だけが間違っているかのような言い分でこの、おそらくは平家に連なる娘の異能を自分達が手にしていいのかと。

 あまりに深い絶望と混乱は、思考能力を奪う。彼女はおそらく、この矛盾に気づいていない。
 あれだけの強気な言い分を持って突っかかってきたのだ。きっと、落ち着けば彼女はその矛盾に気づくだろう。そして、あれだけ誇り高い精神を垣間見せたのだ。一度宣したことは、覆さない、いや、覆せない。だから、ここで丸め込む必要があるのだ。

 お気持ちはわかりますが、と。心底申し訳なさそうに切り出したのは、弁慶だった。
 僕らはこれから、戦後処理をしなくてはなりません。そこに、部外者を置いておくわけにはいかないんです。君のことは、陣中の兵が見てしまっています。加わるのなら今、去るのでも今です。その違いによって、市中までに君をどう扱うかが決まります。中途半端なことはできません。

 表情も声音も、すべてが申し訳なさに満たされていて、きっと慣れないものや状況のわからないものが見れば、何も疑いはしないし、疑問にも思わないのだろうと九郎は小さなしこりを覚える。
 弁慶は、彼女を逃すつもりなどないだろう。兵への説明などどうにでもなるし、たとえ疑問や不満を持たれたとしても、彼女の持つという異能さえ本物なら、あとからいくらでも挽回はきく。それこそ、弁慶に説明を考えさせれば間違いない。
 けれどそれをしないのは、彼女という貴重な戦力を、より確実に手に入れるため。

 言い分にぐっと口籠る様子を見せてから、胡蝶は静かに表情を削ぎ落とした。寒さのためか、頬が赤らんでいることを除けば、まるで面のような、不動の無表情。
 わかりました、と。
 いらえの声は微塵も震えていなかった。巌のような、深く深く、何ものにも脅かされない、覚悟の声。
 一度だけ瞬いて、すっと見据える双眸の強さには混じり気などなく、その迷いの無さに九郎はわずかにたじろぐ。
 瞬いた瞬間、弁慶が浮かべた仄暗い笑みを見てしまったからだろうか。それとも、痛みなど微塵も垣間見せない彼女に、自分の内心の葛藤を思って恥ずかしくなったからだろうか。
 けれど戦場ではそんなことを思い悩む暇などない。ゆえに九郎は朗らかに笑って「良かった。では、よろしくお願いしますね」と言いながら振り返る弁慶に応じて、小さく頷くことで、その思索から半ば強制的に引き剥がされたのだ。


 還内府としての地位をすでにある程度以上確立している将臣に対して、望美の立場はあまりにあやふやだった。それこそ文字通り、唐突に降って湧いたのだから、無理はないだろう。
 出会いの場面に居合わせ、味方になりうる重衡は墨俣に出発してしまった。将臣が自分の知り合いだと言って庇ってくれているが、それが通用するのは清盛に対してのみ。他の面々は、敵ではなかろうが信用には足りないという姿勢を隠さない。
 その筆頭は知盛だ。
 同じタイミングで、重衡を探しに席を外していたというお付きの女房が行方知らずになっているというのも響いているのだろう。将臣が身分卑しからぬと庇いだてるからあからさまに邪険にはしない。それでも、自分からは決して関わり合わないようにするのは、望美に対してよからぬ感情を持て余しているからなのだろう。しばらくは刺激をしてくれるなと心底悲しげな様子で訴えられては、望美は何を言うこともできない。

 かつては知りもしなかった。
 いつかどこかの時空で、将臣の切なげな声で聞き知った。
 いつかどこかの夏の熊野で、知盛の優雅な舞に垣間見た。
 いつかどこかの平泉で、金色堂にうずくまる銀の祈りと懺悔に胸打たれた。
 そして数えることも忘れた今のこの時空で、望美は将臣の悲哀の真髄を、知盛の諦観の対極を、銀の懺悔の根源を、噛み締めている。

 確かにこれは捨てられないだろう。目を背けたくもなるだろう。いっそこの手で葬ってしまえと、思いつめるだろう。知ったつもりでいて、わかったつもりでいて、けれど決して届いてなどいなかった感慨に、望美は息を詰める。いったい自分は何度、彼らの絶望を踏みにじり、彼らの希望を脅かし、彼らの願いに最後のとどめをさしてきたのだろう。
 知らなければ良かった。いや、知ってはならなかったのだ。知ってしまえば手が鈍る。刃を降り下ろせなくなり、切っ先を突き立てるのに迷いが生じる。
 将臣の、知盛の、銀の思いを知って渡った時空での迷いなど、ためらいなど、なんと生温かったのだろう。それでも望美は刃を振るえた。将臣に対峙し、知盛を打ち負かし、銀に許しを与えられた。けれど、次にも同じことができるだろうか。この思いのすべてを抱えて再び時空を超えた時、同じように胸を張って将臣に対峙できるだろうか。知盛を海底の都に追いやれるだろうか。銀に、過去を切り捨てろと、言えるだろうか。そんなの、無理に決まっている。

 敵を知ることは重要だが、知りすぎてはいけないと語ったのは誰だったろう。知るからには覚悟がいる。あるいは冷酷さが、あるいは心を殺すことが。
 だから九郎は敦盛を尊敬していた。敦盛はヒノエを気遣っていて、ヒノエは弁慶を苦手視していた。
 望美は知っている。望美には、その覚悟が持てないのだ。思えば、どれだけ時空を超えようとも、望美は結局源氏であり続けた。将臣の負うものを知ろうと、知盛の戦場以外での側面を知ろうと、銀の正体を知ろうと、源氏以外の何ものでもなかった。だから、いつでも平家の敵であれた。同じことを繰り返しているだけだったのだ、結局。


 もう繰り返せない。その気づきは、望美にとって絶望でありながら、確かに安堵をもたらした。
 もう繰り返せない。だから、もう繰り返さなくていいのだ。たとえこの時空での未来がどんな結果に行きつこうとも、望美はやり直すことができない。かつてのように平家に刃を突き立てることはできないだろう。そして、あれほどに慕った源氏の面々に、そう何度も刃を向けるわけにはいかないのだ。
 行き場を失なった望美に選び取れる道は、ただ一つ。この瞬間を不変の過去とし、進む道を唯一の未来とすることだけ。

 静かに、静かに。望美は覚悟と絶望を飲み下す。そして、自分が決して強くないことを嫌というほど自覚しているからこそ、望美は己を追い詰めることを自身に課した。

 それは、あの夜から六度目の十六夜の見守る宵闇の中で。
 あの優しき龍が、その命と引き換えに渡してくれた逆鱗を、その力でもって与えてくれた神剣で砕くことで。

 もう戻れない。やり直せない。その現実を取り返しようのない形で手にするのはやはり底知れない恐怖だったが、だからこそ望美はいっそう真剣になった。がむしゃらに剣を振り、腕を磨き、鬼気迫る勢いで毎日に向き合うようなった。そして、ようやく気がついた。逆鱗を手にしていた頃の己が、どれだけの傲慢さでこの身を切られるほどの幸せに満ちている、貴重な日々を無為に見流していたのかを。
 将臣には、眩しそうに、照れ臭そうに、変わったなと呟かれた。重衡にはようやく地上も悪くはないと思っていただけましたかといたずらげに笑われ、敦盛には貴女に諦めは似合わないと瞳を細められた。これまでの貴女は、まるで世界のすべてを諦めてしまったような、静かすぎる目をしていた、と。
 そして、見向きもしなかった知盛が、望美に向き合ってくれるようになったのだ。

 どういう心境の変化かと訝るのは、そして望美だけだった。将臣はやはりと笑い、重衡は、安堵したように微笑んだ。
 兄上は、日々を必死に生きる方が好きなのです。諦めとは対極の方。ゆえ、悲嘆と諦念をどこかに秘めていた貴女のことが気に喰わなかったのでしょう。

 告げられた内容に、望美はただ息を呑み、あまりの恥ずかしさに俯くことしかできなかった。悲嘆ではない。諦念でもないと思う。けれど、そう見えていたというのなら、それは無意識のうちに醸していたもの。自覚のない甘え。心の緩みであり、人としてあらざる驕りの極み。
 時空を超えられることに甘んじて、誰にとってもたった一度でしかないはずの時間を蔑ろにして、向き合う姿勢に真摯さが欠けていたという糾弾。
 ああ、自分はどこまで堕落していたというのだろう。そして、だからこそと何度も胸に誓う。
 いまこそすべてを改め、今度こそ真摯に生きようと。
 過ぎてきてしまった時空には戻れない。かつて望美が背を向けたあの数多の時空が、いったいどんな未来を歩んだかもわからない。知る術はない。そして、知る権利もない。なぜなら、望美はその未来を捨てたのだ。他ならぬ己の選択として。 誰にも糾弾されないのは、救いなどではない。何よりも重い罰だ。誰かに糾弾してもらえれば、謝ることができる。あるいは慰めてもらえるかも知れない。けれど、望美には己の胸にすべての真実を沈めておく以外の選択肢など、許されていないのだ。

back --- next???

http://mugetsunoyo.yomibitoshirazu.com/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。