彼方の光
ついに望美は早春の十六夜の日に流れ着く。より前に、源流にと望んだ結果。
宴を抜け出したきり戻らない重衡を迎えに出向いた胡蝶は、不可思議な光の渦に巻き込まれて時空の奔流に攫われる。
それは、各所に望美が現れる際の光。その瞬間は誰も気づかなかったが、重衡が戻ったのに胡蝶が戻らないことを不審に思った知盛により、すべてが発覚する。
はじめは行き違いになったのかと思い、望美の件でバタバタしている重衡と将臣を置いて自ら探しに行く。
(気だの何だのを探ることはできるが、それはあくまで集中していての話。獏然と過ごす中ではわからない。だから、望美が降って湧いたことも、理屈として理解はできてもわからない。常にそんなことを意識していてはしんどい。)
探してもどこにもいないし、誰も見かけていないと言う。門はおろか、邸を出た様子もない。ただ忽然と姿が消え、必死に気配を探っても見つからない。
変化点は、望美の存在だけ。
怪しくてしょうがないが、確たる証拠が何もない。詰るに詰れず、ただ知盛は距離を置く。そばにいると八つ当たりをしたくなるから。
望美はなんとなく絡繰が読めている。きっと巻き込まれたのだと。ただその理由がわからない。これまで誰かを巻き込むことなど、なかったのに。
巻き込まれたのは世界の仕組みゆえに。神の思惑も超えた単なる調整。
神子が召喚され、複数の存在が許されるのは宇治川の戦いのあの時から。それ以前の時空では、神子というイレギュラーな存在を飲み込むキャパシティの用意ができていない。だから、後から介入された分、前からいた胡蝶が弾き飛ばされた。
貴船の神も、存在許容のための世界への介入はそんなにできないし、軽々しくできるような簡単なことではない。
バランスを保つにはどちらかが拒絶されないといけない。今回、それは強い意思を持って乗り込んできた望美には適用されず、そんなこと意識もしていなかった胡蝶に適用された。
胡蝶が飛ばされた先は冬の宇治川。義仲の追討が終わった戦場に。何がなんだかわからないが、怨霊には気づけた。
平家が怨霊を生み出していることは知らないが、鎧の意匠から平家の兵であることは推測できる。
嫌悪感はなかった。ただ悲しかった。どうして、どうして。
自然に生じたとは考えにくい。その場合、もっと違う姿になることを知っている。少なくとも、鎧やらまでそのままに蘇るには、死して時間を置いていないということ。そんな生じ方をする怨霊など、聞いたこともない。
頭の中を駆け回るのは嘆きの声ばかり。何がどうして理を踏み越えたのか。どうしてこんなことになっているのか。そして声もないままに呼ぶのは知盛の名前。あなたはこれを知っているの?知っていて、隠していたの?
知っていて、隠せと言ったの?
図らずも朔と白龍を助けた胡蝶だが、封印はできない。嘆く朔を尻目に胡蝶は無慈悲の焔を呼び起こす。優しさには欠けるだろうが、終わらせるという終着点は同じだと信じて。
朔の名を聞いた時点で行く先が源氏の陣であることへの確信は持てていたが、まったく状況の読めない胡蝶は、そのまま黙ってついていくことにした。いずれ抜け出すことも不可能ではない。まずは状況を把握することを最優先させたかった。
(胡蝶の中で、義仲はまだ不穏勢力ではなかった。その義仲が追討され、平家は都落ち。まったくわけがわからない。胡蝶はさほど日本史が得意ではないため、時系列の推測ができない。)
陣に連れていかれ、不審者を見る目に晒されながら胡蝶は冷徹にすべてを観察する。兵の様子、陣内の雰囲気を見れば将の器が知れる。軍としての力量も、敵方への憎悪の深さも。
朔を叱り飛ばすのは若き将。兵を見ても思ったことだが、若い。そして皆、士気が高いようなのだが、嫌な緊迫感が抜けない。
口出しをすることもないかと控えていたのだが、放置されていたのは見かけゆえだろう。一見すれば、胡蝶は単に非力な娘だ。軍にあって違和は拭えないだろうが、害になるとは思うまい。そして、終わりの見えない叱責に割って入ったのは、やはり若い御坊。こんなところで声を荒げるものではないと、あまりに当たり前の忠告が今さらなされることにはいささかの呆れが堪えきれない。
やっと存在に目を留められ、誰何に応じたのは朔。怨霊に襲われたところを助けられたのだと、その言葉に、いかにも不審げに、けれど結局は侮る視線のみを向けていた二人の様子が一変する。不審者を見る目から、間者を暴くそれへ。
源氏が相争う先は、平家に他なるまい。口を開く権利がようやく与えられたところで、胡蝶は慎重に言葉を選ぶ。
ここはどこ、あなた方は誰?
自分が何者であるかなどわからない。身寄りもなく、拾われた主人に仕えていた。その主の邸で催された宴席で、突如光に包まれたと思えばここにいた。
戦う術は、生きるのに必要だから身につけた。それを活かすべき場面に遭遇したから、活かした。ただそれだけのこと。
説明して欲しい。まずは、今がいつなのかから。
顔を見合わせたものの、九郎らが胡蝶の言い分に文句を付けることはなかった。何を言うよりも先に、白龍が口を挟んだのだ。
彼女はここではない処からやってきた。現れたのを私は感じた。本当は、神子を招いたつもりだったんだけど。
神子という単語に、九郎は眉根を寄せ、弁慶は表情を一変させる。どういうことかと詰め寄る弁慶に、白龍は変わらない様子で答える。
応龍が分かたれて、黒白の龍が生じた。けれど黒龍は現れず、龍脈の乱れは増すばかり。ゆえに神子を求めた。遠く遠く、時空の果てから。
やっと見つけたと思ったのに、神子はこの時空に現れなかった。きっと、私の力が及ばなかったから。
呟くように、まるで懺悔のように。嘆く白龍に悪気はないのだろうが、居合わせた面々はなんとも反応のしようがない。
けれど、これで胡蝶への疑いの目はだいぶ和らいだ。何せここではないどこかから呼んだという証言が得られたのだ。白龍が人間でないことなど、見れば明らか。疑わしく、信じるにはあまりにも荒唐無稽。けれど、疑う証拠こそがない。
女だてらに戦えることだとか、もともと仕えていた家の詳細がわからないだとか、自身でも無理があると思った言い分はもちろん、九郎からも弁慶からも疑惑の目線を向けられたが、頑として譲らないことに諦めたのか、執拗な追求にはあわなかった。伝令の兵が戻ってきたのを合図に、詰問の場はお開きとなり、胡蝶はそのまま朔と共に本陣のある平等院に向かうよう指示される。詳細は、それから話そうと。
言い出したのは弁慶で、九郎は何やらもの言いたげな様子を見せたものの、結局何を言うこともなかった。そそくさと移動に入ったあたり、恐らくまだ疑いの晴れない相手には聞かせたくないことがあるのだろう。胡蝶としても、まだあまりにも情報が足りない。ここはおとなしくしておくことが互いの利になる。
冷ややかに巡らされる無言の牽制合戦になど気づいた様子のない朔に促され、戦場にも、刀を振るったという報告にも見合わぬ非常に優雅な所作で踵を引き、胡蝶は実に無防備に九郎らに背を向けた。
道すがら朔から徒然に話を聞き、胡蝶は必死に思考を巡らせる。燻るばかりだった源平両家の諍いはもはやどうにもならない次元に達したのだろう。そして平家に対して圧倒的不利を配してばかりだった源氏がついに十分な力を得たのか、あるいは力の満ちるのをもはや待ちきれなくなるほどに状況が差し迫ったのか。胡蝶にはわからない。
話の中からわかったのは、両家が表立ってぶつかりはじめたのは、この二年ほどであるということ。義仲の蜂起を皮切りに、平家が徐々に力を削がれているということ。冨士川の大敗。倶利伽羅峠の惨劇。平家都落ちと、義仲入京。水島の戦いを経て力を取り戻し、瀬戸内を飲み込みながら福原を奪還し、追い詰められた義仲がついに後白河院からも見限られたこと。
語られるすべては淡々と、まるで物語を読み上げるかのように。けれどその中に詰まった現実はあまりにも深い。表情が動かないように息を殺し、袖に隠した手指を握りしめ、胡蝶は静かに絶望する。
隔たりはあまりにも明らかだった。なぜ、どうしてと嘆いてもしょうがない。理屈などわからない。ただ、残酷な現実だけが突きつけられる。胡蝶が切り離されたあの時間から、取り戻しようがないほどの喪失が積み重ねられたのだと。
平等院に九郎らが戻ってきたのは、日が沈んでだいぶ経ってからだった。ざわめきに紛れるのは隠しようのない苛立ち。気が立っていることがあまりにあからさまな、餓えた獣の気配。
敗北とまではいかないが、似たようなものを味わったのだろう。屈辱を噛み殺す横顔を、胡蝶はぼんやりと見つめることしかできない。
血の匂いは消しきれないものだ。洗おうとも洗おうとも、染み付いて、匂い立つ。ふとした瞬間に立ちのぼり、忘れるなと糾弾する。
胡蝶が感じるように、彼らが感じているかはわからない。だが、気配なり雰囲気なり、そうと知る部分はそれなりにあろう。足捌きも、身の処し方も。刀の扱いを知る前と今とでは、隠しきれない違いがあると、低く笑われたことがある。
殺伐とした気配とは裏腹な笑顔で、やってきたのは弁慶だった。すみません、九郎は少し、苛立っていまして、と。告げる声は穏やかで、胡蝶はそれが恐ろしい。すべてを笑顔で覆い隠して、この人は、何を考えているのだろうか。
橋姫神社に、平維盛殿がいらしていたのですよ。
なんでもない口調で、弁慶はそう切り出した。
単なる様子見だったのでしょうが、気づいた以上、こちらとしても素知らぬふりはできません。出向きましたが、やはり怨霊相手にはなんとも分が悪い。どうにか退いていただいたというより、見逃していただいたようなものですね。
維盛の名を聞いた時点で表情を隠すことを完全に忘れた胡蝶は、ついに呻くようにして問いかけていた。
平維盛殿が、出陣を?
あれほどに地位ある方が。あれ程に、戦を厭われる方が。
否定を探す胡蝶の声に、弁慶はあくまで冷ややかに応じる。
あなたの知る平維盛殿が、僕の思う維盛殿と同一の方であるかはわかりませんが、怨霊として蘇られてから、どうやらだいぶ生前とはご様子が違われるようですね。
平家は怨霊を擁します。あなたがこうして嘆き悲しむように、本来はあってはならないことです。こうして龍脈を乱し続ける平家と、僕らは戦っているんです。
芝居がかった所作には苛立たされたが、告げられた現実が何よりも重かった。もう何も、自分の知るものは残っていないのだろうか。知らない情勢。知る影のなくなってしまったかつての人。先の見えない、霧中の未来。
戸惑ったように見つめる朔、むっつりと唇を引き結ぶ九郎。その視線には気づいているし、向けられるべきではないとも判断している。怪しまれながらもせっかく誤魔化したというのに、隠すことなどもはやできない。
君は、今の平家のやり方を、許すことができますか?
冷ややかに問うその目的は、果たして自分の思う通りなのだろうか。だとしたらいったい彼に何の利がある?
確かにこの手は刃を握る。手綱を握り、この足で戦場を駆ける。この身は人ならざる力を宿す。けれど、けれど。
何をせよと、申されます。私に何を見ています。何を、考えているのです?
君が何者であるかは問いません。君がどうするかを問いましょう。もちろん、僕らにとって害がないなら、僕らも君に仇なすようなことはしません。
見え透いているのに、見ない、触れない、擦りもしない。
白々しさばかりが降り積もる。けれど、もう見ないふりなどできないのだろう。胸に迫るこの遣る瀬無さを、放置すればきっと、果てない後悔に沈む。あの人がまさか、この先に待つのが決して明るい未来ではないと、察せないわけもないのに。
next