朔夜のうさぎは夢を見る

言わずにおいた言葉

 確かめたかったことは確かめた、と。その言に偽りはなかった。知盛が確かめたかったのは、娘の無事と同時に、彼女がまだその“力”を知られていないかどうかと、それを制御するだけの強さを保っているかどうか。
 伸べた指を振り払われた時の、あの、見たことのない表情は気にかかったが、それ以外に特に変わったところは見受けられなかった。だから、彼女はこの先に訪れるかもしれない“その時”に過たず力を揮うだろうと確信して、それだけでいいと思うことにした。
 それで終わりにするべきなのだと、己に言い聞かせたのだ。


 彼女こそは最後の砦だった。肴のない、月もない、酌をしてくれる人間もいないたった一人の酒宴の中で、知盛はそう思い返す。
 彼女こそは、最後の砦。無二の楽園。世界をどれほど渡り歩こうとも二人と見出すことのできない、絶対の唯一。
 失うつもりはなく、喪うわけにはいかず、それを彼女も望んだはずだった。別たれたと、その可能性に絶望しかけ、けれど諦め切れずに必死に抜け殻を護り続けたらしからぬ己を珍しく称賛する気になったというのに。
 それこそらしからぬことだと思いながら、自嘲と自棄の溜め息が唇をすり抜けるのを、幸いにして隠す必要はなかった。邸の者は、皆よくわかっている。ここは不可侵の領域。知盛の許可なくここに踏み入れるのは、彼女のみ。だから知盛は、この絶対の空間でだけは今でも、失った幻想を隣に思い描くことができる。


 彼女ゆえにと定めた道は、既に知盛の手を離れた。もう、これ以上の画策は必要ないだろう。あとは、その場その場で求められることをそつなくこなしていけばいい。それだけで、あれほどの奔走のすべてが報われる。
 手酌で満たした杯に口をつけ、蒼黒い夜闇を啜る。想定外のことがいくつか起こりもしたが、この酒が祝杯であることに変わりはない。少しばかり気の早い、前祝いといったところか。
 せっかくだからと、これまで惜しんで取っておいた気に入りの酒を開けた。だというのに、甘露を甘露と感じられない舌は、せっかくの美酒をまるで白湯か清水のように喉の奥へと送るだけ。あまりにもつまらない味気なさに、刀を振るう以外での唯一の楽しみであったはずの酒の存在が急速に色褪せていく。


 拒まれることの絶望を知り、その向こうで滾る己の激情に恐怖したのは、あれが初めてだった。
 失いたくなどないのに、だからといって自分を拒絶する彼女を穏やかに見守るなどという選択肢は存在し得なかった。振り払われたと、そう知覚した瞬間に沸騰したあの激情を野放しにしなかったのは、矜持と、そして思いの深さゆえだと後から思い至った。
 「ここに帰れ」と言った自分を拒絶するのなら。自分に帰るのが苦痛であるのなら。それを拒絶して傷つくほどの痛手を負ってしまったのなら。
 ならば、還ればいいのだ。
 すべてが終わった暁には、還れるよう願い出てやろう。それを対価にと願い出よう。足りない分は、この魂をもってでも、補おう。
 手の届く場所にいながら自分を拒絶する彼女は、見るに耐えない。耐え切れず、そして自分はきっとあの激情をぶつけ、彼女という存在そのものを引き裂いてしまう。だから。
 この、自分でも御しきれぬだろうとしか思えない激情をぶつけようのないところへ彼女を還すことこそが、最後に残された希望なのだ。


 ああ、やはり、お前は天上に住まうもの。月の都でしか生きられない、自分とは違う生き物。
 ならば帰れ、今の内に。まだ、還してやることこそがせめてもの慈悲であり誠意であると、そう囁く理性の声に従っていられる内に。
 そうでなくば俺は、お前がたとえ血の涙を流して泣き叫ぼうとも、お前を手放したりはしない。
 羽衣に伸ばされるその指から血の気が失せるほどに、握り締めよう。
 天へと翔けるその足は、あらん限りの鎖で戒めよう。
 悟られぬよう、逃さぬよう、幾重にも幾重にも巡らせた策を超えて、それでもなおとお前が俺を拒絶するのなら、俺はきっと狂うだろう。
 お前のその瞳に俺だけを映して、そしてお前から光を奪おう。
 お前のその耳に俺の声だけを響かせ、そしてお前から音を奪おう。
 この凶暴な衝動は、お前だからこそ抱く理性。この凶暴な衝動を殺さんとする慟哭は、お前が相手だからこそ抱く本能。


 お前がお前であるために、この俺が枷となるのなら。いっそお前のその蒼焔でこの魂ごと、灰の一片も残さずに焼き払ってくれと懇願する前に、お前という存在そのものを、天に還してしまおう。
 御しきれない激情をぶつけてお前を喪うぐらいなら、ぶつける前に己が意思でお前をこの指の届かないところへと失うことこそが俺の矜持。俺の尊厳。俺の意地。俺の、お前へのせめてもの、愛の形。
 お前がお前であることを愛した俺は、お前が俺を拒むことを認められない。そして俺は、狂気の海に最後に残ったたった一滴の理性でもって、お前への愛を貫こう。俺は、俺から解き放たれたお前を認められない俺を殺し、お前を引きずり込もうとする俺からお前を守り抜こう。
 それが、お前を鞘と呼びこの地上に縛り付けた愚かな人間である俺からの、最初で最後の、懺悔。


 すべてが終焉に向かってひた走っている。もはや知盛の手を離れた策は、もう知盛が何をせずとも成就するだろうし、何をしても成就してしまうだろう。無論、無事に終わってくれるのならそれが一番面倒が少なくて結構ではあるのだが、終わるということは、彼女を還すということなのだ。
 それが寂しくて悔しくて気がそぞろだっただなどと。あの、にぎやかに酒を飲み、隠しきれていない気遣いを勢いの中に誤魔化しているつもりだったらしい青年に、教えてやる義理はない。
 やはり水のようにしか思えない味気ない酒を舐め、一向に回らない酔いに何かを諦めて。知盛は深く息を吐き出すと杯ごと腕を床に投げ出し、柱に体重を預けて瞼を下ろす。
 どうせ深く眠れないことはわかっていたが、場所を移す気にはならなかった。ただ、このしんとしじまに満ちた夜闇に沈んでいれば、あの水底にまどろむような眠りを少しは思い出せるかと、そんなことを思っただけで。


言わずにおいた言葉

(お前が変わらず傍にいてくれるなら、俺を拒まずにいてくれるなら)
(あるはずのない永遠を願い、ナニモノからも守ると誓い、誰よりも傍にと抱き寄せ)
(そして、この心のすべてを捧げる、だから、)
(なぁ、俺はただ、同じだけの愛が欲しいんだ)

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。