いとしき監獄
「父上、本日はご多忙の中お時間を賜りましたこと、まずは御礼申し上げます」
「よいよい。何ぞ、吾に進言したきよしとな……。そなたにしては、珍しい」
和議を勧告する院宣を受ける受けないで大揉めに揉めた過去が生々しくも遠からぬことから、浅からぬ警戒をしながら父の前に頭を垂れた知盛は、思いがけず穏やかな物言いに軽く眉を上げてから表情を取り繕い、顔を上げる。そして、それがかの大狸と互角に渡り合ってきた先の太政大臣の持つ仮面のひとつだったことを、すぐさま思い知らされたのだ。
「して、何事じゃ?」
ひたと据えられる紅の瞳は、暗く、深い。光をすべて飲み込んだような、奈落を思わせる深み。だが、それに呑まれて圧倒されては意味がない。ひとつ息を吸うことで丹田に力を篭め、知盛は言葉を綴る。
「黒龍の逆鱗をお渡しいただきたく、御前に上がった次第にございます」
警戒されているのなら、元よりする気のなかった遠まわしな物言いはすべて却下。言葉尻を捕らえられて翻弄されぬよう、本題のみを衝きつけるに限る。
真っ向からそう言い放った途端、清盛の全身から滲み出る気配がずんと重くなったのを感じる。これは、言葉を使わない威嚇だ。怨霊と化す前からも呪術関連に造詣の深かった父は、こうして気を有効に活用する術をよく心得ていた。その背中を見ていたというのも、退屈しのぎに陰陽術関連の書物に手を伸ばしたきっかけのひとつだったのだが、それは誰にも明かしていない知盛だけの秘密だ。
血脈的に恵まれたのか、知盛も重衡も徒人に比べれば存分に強大な気力を有しているし、見かけばかりがそっくりと思われた客人の青年も、気の種類は違えど強大な陽気の塊。だが、慣れていない分、やはりこの場に連れてこなかったのは正解だろう。そも、これは一門にて栄華という名の甘い蜜を啜った人間こそが担うべき罪業。かの青年は、そもそも怨霊の名を負うことさえない、本来ならば徹底的に庇護されるだけの存在なのだから。
「お渡しください。それは、人の世に縛り付けるべき力ではございません」
「……渡したとしたら、何とする」
「龍神の神子殿の手にお返しし、龍脈へと還します」
地を這い全身を縛る強い声に押し潰されようとする肺を、気力で押し返す。飄々とした態度を意識してなんでもないように返せば、さらに空気は重さと密度を増す。
あくまで人間である知盛は、性別の面からも性情の面からも陽気に偏った気を宿しているが、怨霊である清盛はその対極を行く。たとえ陰陽の調和が整った存在とはいえ、怨霊という在り方そのものが世界の枠から外れているのだ。醸し出される気配はすべて陰気で構成されており、その渦の中で潰されぬよう気を張ることは、思った以上の負荷となって知盛の神経を侵蝕していく。
「なぜ、そなたが逆鱗のことを知っておる?」
「龍神の神子殿に、うかがいましたゆえに」
「神子、神子と……和議を受け入れ、果ては神子の甘言に乗るというのか? そなたはいつから源氏の犬に成り下がったのじゃッ!?」
鋭く怒号する清盛の陰気は、もはや轟音を伴う突風となり、几帳をなぎ倒し、御簾を吹き上げて室内を荒らす。だが、その只中にあって、知盛は動かない。
「終わりにしましょう」
風に吹き消されることを考えない、それは平静どおりの声だった。違いがあるとすれば、それは平静よりも感情の色があからさまである点だろう。かなしいのだと、雄弁に訴えるともすれば頼りない声で、知盛はもう一度繰り返す。
「終わりにしましょう、父上」
「和議だけでは飽き足らなんだか! お前は一門を滅ぼすつもりかッ!!」
「我らはヒトです。神の力を用いるのではなく、我ら自身の力でもって、生きゆくべきなのです」
「その神の力で栄華を得たのだぞ!? それを捨てよと、そんな馬鹿げた話があるか!?」
「父上、ですが、あなたは神の力になど縋らず、ご自身のお力で位人臣を極められたではありませんか」
成り立たない会話に瞳の奥で哀しみを降り積もらせ、けれど知盛は諦めずに根気よく言葉を重ねる。
その思いが単に権勢欲だけならば良かったのだ。それならばあるいは、こんなに悲しい思いをしないで、もっと早々に父という存在に絶望し、父という存在を見限れた。在り方を歪め、神の理に手を出し、そうまでして彼の追うものを、けれど知盛は知っている。父はただ、自分を含めたすべての一門のものを、あまりに深く愛しすぎただけなのだと。
「神を縛さねば、我らの栄華はありえませんでしたか?」
あなたの愛を疑ったことなどない。あなたの愛に、満たされて生きてきた。でも、あなたは知っているのだろうか。そうしてあなたが愛を向けてくれるように、自分たちもまた、あなたに愛を向けているのだということを。
「我らは、あなたのために、それほどに無力な存在でしかありませんか?」
心配してくれていたことは知っている。助けようとしてくれたことも知っている。それでも、信じて欲しかった。至らぬ身とは知っていても、それでも、出来る限りのことを、あなたのために、一門のために、為す覚悟だけは同じだと思っていたから。
「どうか、父上。これ以上、御霊にひずみを齎すまねは、おやめください」
「黙れ、黙れだまれッ! 重盛はおらんのか!?」
叫んで叩きつけられた扇を避けることも受け止めることもせず、知盛は黙って打ち付けられた頬に走る痛みに小さく眉根を寄せた。
「重盛、重盛ッ!!」
幼い声で必死に長兄の幻想を求める父の声は、知盛をはじめ、生きる人間にとっては毒にしかならない陰気に偏りすぎた嵐を呼び起こす。それでもなお、知盛は動かない。ただ悲しみだけを湛えた瞳で、呼ぶ。
「ちちうえ」
呼ぶ声は、細く、かなしい。呼んでも応えてくれない父の姿が、そろそろ耐えることも限界に近づいてきた陰気の嵐の中で、ゆるゆると霞んでいく。
「あなたが愛してくださるように、私もまた、一門を愛していたいのです」
だからどうか、これ以上希望を塗り潰して、失望させないではくれまいかと。願いを言葉にできなかった後悔が、最後の自覚。そして知盛は、自分では声を届けられないのだという最後の絶望に、ゆっくりと沈んでいった。
いとしき監獄
(悪夢であっても、無間地獄であっても構わない)
(あなた方が愛しぬいたこの場所を、愛していたかったのだけれども、)
(わたしの愛は、あなた方の憂いを払い、心残りを受け継ぐのに、何が足りなかったのでしょう)
Fin.