いとしいとしと言ふゆえに
そういえば、と。祝いだという酒の席において、誰よりももてなされるべき知盛に対して、不躾極まりない話題を振ってきたのは、たった四年で揺るぎない兄弟仲を構築した将臣だった。
「お前、この前のあれまで、胡蝶さんに手出ししてなかったんだな」
「……なんだ。唐突に」
「いや、だって気になるだろ?」
「そうそう。艶聞に事欠かない新中納言殿が、ここまで手出しを控えるなんざ、聞き捨てならないぜ?」
将臣の遠慮のない問いかけに、やはり遠慮の欠片もなくヒノエが便乗する。九郎は顔を真っ赤にしているが、弁慶も景時も咎めようとしない。強いていうなら、敦盛と譲が眉をしかめているぐらいなものだ。
にやにやと楽しげに笑っているのは、酒のせいだけではないだろう。知盛とて、自分と彼女がどれほど周囲をやきもきさせていたかは知っている。
もっとも、それは彼女が悪いのだというのが知盛の言い分であり、その点に関しては誰からも文句を言われたことがない。ただ、だったらその手の経験が豊富なお前こそがもっとうまく立ち回ってやればよかったろうという指摘も、必ず付随しているが。
「………俺とて、別に好き好んで控えていたわけではない」
祝いだと、その言葉に偽りはないらしい。各々が持ち寄った酒は、どれもかなりの美酒揃い。口の中で香りを楽しむように転がして、その愉悦のまま、知盛は返礼代わりに誰にも明かしたことのなかった言い訳を舌に載せてもいいかと思い立つ。
「ええ、存じ上げておりますとも。控えていたのはすなわち、堪えていらっしゃったのだと」
ゆるりと紡いだ言葉には、しかし笑いを含めたよく似た声が続く。
「本気で入れ込んでいらっしゃるのを拝見したのははじめてですので、これまでと比べるのは胡蝶殿に失礼にあたりましょうが」
くすくすと笑い、将臣以上に間近で知盛とのことを、それこそほぼ最初からずっと見続けていた重衡が揶揄を重ねる。邸にどこの誰とも知れない娘を引き取ると言い出し、世俗と触れさせぬように囲い、意地のように守り、夢のように愛でる。それは知盛の築いた、小さくもかけがえのない楽園だった。そうなるに至るきっかけは見逃したが、重衡はそうして緩やかに変化してきた兄の姿を、しかと見てきたのだ。
「お蔭で大変だったのですよ? 代わりにと当たり障りのない夜遊びをなさるのは結構ですが、一夜が明ければ以前以上にご無体だと、一体いかほど嘆きの言葉を聞いたことか」
「……お前、そんな苦情係みたいなのまでやってたのか」
「顔立ちが似ておりますので、鬱積する思いをぶつけざるを得なかったようで」
「すなわち、お前も同じほどに遊び歩いていた……と。そういうことだろう?」
「おや。私とて男なのですよ?」
「お蔭で俺は、あんなにも愛を囁いてくれたのは何のつもりだったのか、と。詰られることが、ままあったが」
「はいはい。要するに、どっちもどっちってことだろ?」
質の悪い笑みを湛えて言葉を投げ合う兄弟に呆れの色濃い声を投げつけ、ヒノエが脱線してしまった話題を引き戻す。
「で? こんなにも必死に手出しを控えた理由、教えてもらおうじゃん」
聞く権利はあるはずだと、胸を張らん勢いで正当性を主張するヒノエはしかし、その双眸を好奇心で煌めかせている。
まあ、語るに否やはない。無粋で殺伐とした話になるからと、口を噤むだけの分別があっただけの話なのだ。
「アレは、いわゆる雄の気配に怯えていた……。恐怖に疎む女を無理に組み敷く趣味は、ない」
はっ、と、それぞれに息を呑む気配が重なる。
とりわけわかりやすく申し訳なさそうに眉根を寄せた九郎に、知盛は小さく笑う。
「お気になさるな。その気配は、拾った頃からあった」
「だが、間違いなくそれは――」
「軍場にての諸事だ。根に持つほど、我らは物分かりが悪くもなければ……清い身でも、ないさ」
さらりと嘯き、知盛はやわらに双眸を細める。
「無理を強いて、その後が立ち行かねば、意味がない」
引き絞られる眼光が、いっそ物騒な気配を湛える。獲物を前にした肉食獣のように。狡猾な策士のように。
「俺を受け入れられるようになるのを待つに価する、実にイイ女だったゆえな」
「そーゆー惚気は相手を選べって」
意味深げな言葉に、あっという間に九郎の頬が朱に染まる。天地の対のうぶな反応に、呆れながらも苦笑混じりに将臣が混ぜ返す。
「けど、それにしてもよく堪えたね」
月単位ならまだしも、思いを通わせてから約一年。はっきり言って、非常識にも程があるとヒノエは喰い下がる。だが、知盛は余裕を崩さない。ちらと視線を向け、そしていかにも小馬鹿にしたように、いっそ憐れむように鼻で笑う。
「……何だよ」
「いや? 別当殿はお若いと、そう思っただけさ」
「馬鹿にしてるよね?」
「懐かしい、とは、思うがな」
くつくつと喉で笑いを転がし、不思議にやわらかな声は続ける。
「得れば、知ろうよ……。一時の快楽なぞ、永劫この手が届かなくなる恐怖と引き換えにできるものではないと」
言葉は重かった。何せ、彼は真実、彼女の死をも覚悟する別離に遭遇しているのだ。それだけの思いを超えたからこその寛容なのか、元からの性情なのかは、判断が難しい諦観であるのだが。
空になった杯に適当に手元の瓶子から酒を注ぎながら、知盛は目を細める。
「アンタでも、臆病風に吹かれたりするんだ?」
「俺も、人の子だからな」
「……嘘臭い現実ってヤツだよなぁ」
「だね。これほどヒトの定義に悩む日が来るとは思わなかったよ」
「失敬なことだ」
ヒノエの切り返しとも感想ともつかない言葉に白々しく応じた知盛に、将臣とヒノエが声を揃える。あたたかく笑いながらの言葉に、知盛もまた大仰に眉を跳ね上げて、笑う。
「独り身ゆえに、僻まれるのだろう? 俺が羨ましいなら、さっさと身を固めればいい」
「ああ。俺も、真剣に考えたいのだが」
いかんせん、これと思う相手がいなくてな、と。あからさまな揶揄の言葉に思いがけず生真面目な反応があったものだから、皆の関心はあっという間に発言者に集中する。
「九郎、ようやくその気になってくれたの?」
「では、御曹司殿に似合いの姫君を、ご紹介申し上げようか?」
「兄上のご紹介では、九郎殿には荷が勝つ御方でしょう。ここは、私にお任せを」
「お前らご推薦じゃ、どっちもレベル高すぎだろ?」
「酸いも甘いもわかってるオトナの方がいいと思うよ? そしたら、九郎の不器用っぷりも“カワイイ”とかで片付けてくれるだろうし」
「できれば、一途な方をお願いします。遊ばれては、九郎が奥方を娶ること自体を嫌がってしまいかねませんので」
「あ、いや、その、縁があればという話でだな――」
「あの二人の遍歴って、やっぱりスゴいのか?」
「詳しいことは知らないが、ご要望を満たすお相手をご紹介することに問題はないと思う」
勝手気ままにわいわいと騒ぎながら、皆でどんどん杯を干していく。もはや誰の何を祝いたかったのかがあやふやになりつつあるが、そんな気楽な空気に当の主役が愉しげに笑っているのだから、いいのだろう。
そのいい加減さこそが平和な祝宴が明けた翌朝。どうやら泊まり込んだらしい客人に朝を知らせにやってきた知盛邸の女房は、慌てず騒がず、眼前に広がる惨状に小さく息をつき、事態を誰よりも迅速かつ適切に、容赦なく収束させられる邸の女主人を呼ぶため、足音もささやかに来た道を引き返すことを決めた。
Fin.