朔夜のうさぎは夢を見る

今はまだ

 奨められたから、というわけではない。無論それがきっかけのひとつであることは認めるが、それだけが理由ではない。いつだって、あのわかりにくく優しく我慢強すぎる人のことが心配だった。だから、支えたいし、守りたいと願った。何の力もないし、宿す力のことは教えられないけれど、なんでもいいから力になりたかった。その願いと祈りを託せる存在を、だからが見逃す理由などどこにも存在しない。
 作法はおろか、方法さえ知らない。何をどうすればいいのかが何もわからない。ただ、自分に宿るのは紛れもなく奇跡の類だ。その聖邪はともかく、何かしら人外の力をもってでもせめては彼を『護って』くれと祈るのに、きっと自分は徒人よりも恵まれている。それさえわかっていれば十分だ。いずれ、自分がもっと力をつけるまでの気休めに過ぎないこともまた、嫌というほどわかりきっているのだから。
 それでもわかる限りはと思い、朝な夕な、時間を作っては簡単な禊にて身を清め、その上で祈りを捧げた。まるで頑是無い願掛けのようだけれども、それが精一杯だから、その基準はせめて落としたくなかったのだ。


 そうして七日七晩を経てから、ちょうど晩酌に呼ばれた。なんとも良い機会と思って意を決して水晶を差し出せば、なんとも意地の悪い主は意味深げににったりと笑っている。
「よろしければ、こちらを」
「なんだ……貢ぎ物か?」
 いつの間に、どこで男をたぶらかしたのやら。くつくつとこぼされる笑声は、どこまでもからかいの気配に満ちている。それでいて、ちらと垣間見えるのは不快の色。どうやら気に入られているらしいことは知っていたが、これは珍しいと、はわずかに伏せた視線の奥でそっと瞬く。主は、所有物に対する執着など、あまりあからさまに持つようには見えなかったのだが。
「先日、相国様のお遣いの方にいただいたものです。申し上げたと思うのですが」
「父上から、か?」
「どなたとはおっしゃられませんでしたが、たまにはご厚意に甘えよと」
「なれば、お前が持っていればいい」
「わたしよりも、知盛殿にこそ必要であると判じましたので」
「俺に?」
 差し出してしまった以上、このまま手を引っ込めるわけにはいかない。指先が震えているし、どんな表情をすればいいのかもわからない。だというのに、鋭いくせに妙に純朴な一面を持ち合わせる主は、すっとぼけた表情と純粋に不思議がる表情を混ぜ合わせて、双眸を細めるばかり。
「俺は、特にそういったものを使う趣味はないぜ?」
「存じ上げております。ですが、これは破邪の力を宿す石。護身符の代わりになれば、と」
 小さく、知盛の目が見開かれる。


 そういう意外さを前面に押し出した表情が存外幼げで愛らしいことも、きっと知る人は少ないのだろう。それはささやかな優越感であり、仄かな憂慮。何もかも、すべてを覆い隠した日々の生活は、彼にどれほどの苦痛を強いているのか。
「護符……ね」
 呟き、知盛は薄く口の端を吊り上げる。
「かくなものを必要とするほど、俺は頼りないか」
「そのようなことは申し上げておりません」
「だが、禊を重ねて祈りを篭めるほどには、不安……違うか?」
 ぴたりと言い当てられた隠していたはずの日課に、は思わず息を呑み、表情を歪める。何をしているのか。そこにいかな思いが篭もっているのか。その思いが、いずこに向いているのか。すべてをわかった上で、そしてなお差し出した祈りの結晶を受け取ってはくれないのだから、主は本当に底意地が悪い。
「……お前も、女なのだな」
 ふわりと声が笑う。やわらかに、抱きしめるように。瞳に慈愛が滲む。どこか遠い郷愁を見つめるような仄かな哀切が、を包む。


 そのやわらかなあまやかさがなんだかいたたまれなくて、はそっと口を開く。
「わたし自身の力で手にしたものではありませんが、篭めた祈りはわたしのものですから」
 貰い物をそのまま渡すわけではない。ただ、このような形でなくば、主に差し出せるような品を手に入れられなかっただけで。言い訳がましいことは百も承知でそう慌てて付け足せば、心得ているとばかりに知盛は喉を鳴らす。
「お前に、と。父上からの遣いがそう言ったのなら、それはお前の力にて得たものだ」
 穏やかな笑い混じりの声が、そよぐ。
「せっかくの厚意には、甘えるべきなのだったな?」
「日々の感謝と、先日の菊花香のお礼と。どうぞ、お納めください」
「ああ、受け取ろう」
 そしてようやくの指から水晶が離れる。ゆるりとした所作で、知盛の白い指先が組紐を絡めとる。
「どうせなら、お前がつけてくれよ」
 笑う瞳は穏やかな光を弾いている。優しく、わかりにくく。彼はこうして不器用に、甘えてくれる。


 ねぇ、だからどうか、もっとよりかかってほしい。あなたのために、と。わたしの存在を、そう確立するために。その第一歩として、わたしはあなたに祈りを捧げる。祈りを、願いを。忌まわしく、厭うた力にさえ手指を伸ばして。
「かしこまりました」
 そっと手のひらに戻された水晶を、主の首許にあてがう。美しき瞳に、神秘的な水晶の紫色はよく映える。
「お前のごとき色……だな」
「あなたの瞳の色でしょう」
「なれば、我らの色か」
 余った紐を首に何度か巻きつけ、位置を整えれば知盛はいつになく上機嫌に声を立てて笑う。
「気に入った」
 終わるのと同時にずいと身を乗り出すから何事かと思えば、瞳に映るのを鏡代わりにしていたらしい。顎を固定し、じっと覗き込んでからふいと口元を綻ばせ、知盛は指先で水晶をもてあそぶ。
「明朝より、これもお前の仕事だぜ?」
 忘れるなよ。そう穏やかに嘯き、姿勢を戻した知盛はするりと杯を差し伸べる。


 その日から、切れ者として名高い平家の左兵衛督の首許に、ちらちらと紫水晶の飾りが垣間見えるようになった。送り主の正体やら、その鋭くも儚い輝きを彼を示す比喩とするむきやらが噂となって人々の口に上るのは、これよりしばし後のことである。




(そして今はまだ、誰も知らない)
(その水晶が、その組紐が、彼という存在を世界に繋ぎ止める楔となりうる日のことを)

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。