朔夜のうさぎは夢を見る

往くべき道を送る

 にこにこと、一見すれば好々爺にしか見えないその微笑の裏で渦巻くものを正確に察せる人間は、一体いかほどいるのだろうか。ふと脳裏をよぎったそんな疑問を、やはり人好きのする笑みの裏に押し込め、ヒノエは対峙するこの国で最も大きな権力を握る人物を真っ直ぐに見据える。
「さてはて、先の奉納舞は実に麗しかったが、わざわざ龍神の神子を舞い手に仕立てるなどと……一体、いかな思惑か?」
「これは、厳しいことを。せっかくの院の御幸なのです。適う限り最上の舞い手をと、そう愚考した次第にございますれば」
「確かに最上の舞い手ではあったがな。だが、それだけではあるまい?」
「院のご慧眼には、まったくもって畏れ入るばかりにございます」
 言って深く頭を下げ、そしてヒノエは後頭部に突き刺さる探りの視線に小さく嗤う。大狸と、並ぶものなき智謀者と。あらゆる言葉でもってその視野の広さと思惑の深さを称されるかの人の権謀術数をもってしても、この結末は予想外であるに違いない。いまだに敵わないと強く実感する父でさえ、この老獪な治天の君には敵わなかったと聞く。ならば、こうして彼の鼻を明かす舞台に上がれた自分は、あるいは父を越える可能性を掴んだということでもあろう。そう思えば胸が躍ったし、それだけの大舞台に立つ自分には鳥肌がたつ。
 これは、まさに時流の潮。後世に良くも悪くも長く語り継がれるだろう歴史の転換点が、自分の手で作り上げられることへの高揚。
 焦れる気配にもったいをつけながら恭しく頭を上げ、ヒノエは笑う。
「新しき時代を創るおつもりは、ございませんか?」
「……聞こうか」
 返されたのは、老いてなお衰えぬ鋭い眼光。それに臆することなく正面から対峙し、新しき時代の担い手は古きしがらみを打開するための第一歩を踏み出す。


 仕込みは上々。撒き餌も上々。交渉の術は、交易拠点としての側面を持つ熊野を統べる以上、嫌でも磨かれている。まずは外堀を埋めんと他愛ない話題から、ゆるゆると螺旋を描くように目指す地点に焦点を絞り込んでいく。
「今上帝におかれましては、あるべき証のないままのご即位、さぞや不本意なことであろうとお察し申し上げます」
「そうよな。まったくもって、西の揚羽は頑なでいかん」
「もっとも、東の竜胆が従順という保証もございますまい」
「その点、そなたらは神職なだけあり、偽りのないことよ」
「お褒めにあずかり、光栄の至りと存じます」
 つらつらと言葉を弄し、そしてヒノエは核心へと踏み込む。
「その信をもって、お聞きくださいませ。かしこきあたりに、在るべき証をお返しする術を、進言申し上げたくございますれば」
 案の定、院は「三種の神器の返還」という言葉に瞳の色を変え、浮かべていた仮面のような笑みを剥ぎ取った。
「面白きこと。還内府にでもわたりをつけたか?」
 探りが明らかな言葉にはやんわりと笑みを返すに留め、ヒノエは飄々と続ける。
「この身は神職。なれば、泉下より還りし内府殿の言葉よりも、神意をこそ院にお伝えせんと」
「神意と?」
「いかにも」
 事前の打ち合わせよりも少々脚色が過ぎてはいたが、まあ、あの胆力に満ち溢れた神子姫ならば何とでも場を乗り切るだろう。今度こそ隠さず訝しげな表情を浮かべる院には応えず、ヒノエは控えていた女房に目をやって最後の役者の登場を演出する。神聖な、あるいはこの世の日月とも仰がれる皇の血筋をも凌駕する伝説を体現する、神話の担い手を。


 作法にはまったく自信がないと言う望美の希望と、露出が抑えられるほどありがたみが増すという一般論をすり合わせ、最低限に誂えた神託の演出は、はっきり言ってヒノエの予想以上の効果を齎していた。舞台上で見せたのとはまた違う、けれどその神性を余すことなく振りまく透明な瞳と声とで、望美は"白龍の神子"が和議を望んでいる旨を宣言した。
「血で血を洗い、そしてさらにその血を血で洗い……そんな仕組みが、平穏を齎すはずがありません」
 静かに、それはヒノエの知らない時間を見つめる深い瞳。何かをひたすらに愁える眼差しは、纏う悲しみに裏打たれている。
「私の龍は、そんな世界を望みません」
 その一言がどれほどの威力を持つか、きっと彼女は理解していない。だが、だからこそ。それが何の他意も含まない告げる真実だからこそ、聞くものは顔色を変えるのだ。
 告げるべきことを告げ、早々に退室した細い背中を鋭い視線で見送り、そしてそのままの姿勢で時流に誰よりも己が意思を反映させられる権力者は呻く。
「これが、そなたの言うた神意か」
「少なくとも、京を守護する応龍の半身が選びし神子は、そう告げましたね」
「源氏の神子の、これは裏切りとは映らぬのか」
「御曹司も戦奉行も、既にこの話に同意しています」
「……怨霊を使役するかの一門が、神子の言葉に従うとでも?」
「お言葉ですが、院。その神子にこの道を示したのは、他ならぬかの一門の双頭ですよ」
 謡うように提示した立役者の存在に、ついに院は驚愕を貼り付けたその面をヒノエに向ける。
「……双頭?」
「ええ。還内府と、そしてもうひとり」
 あえて途切れさせた言葉に、続くのは深い思いを湛えたしわがれた声。
「新中納言――ほんに、ほんに侮れぬこと。これが清盛が寵児の本領とでも申すか」
 そこに篭められていたのが憎悪なのか慈愛なのか畏敬なのか、その色は判じられない。ただ、この老獪な権力者にまで特異と認めさせるその圧倒的な存在感に、ヒノエは静かに息を詰める。


 しばらくの沈黙をはさみ、やがて息をついたのは院だった。
「余に、いかにせよと申す?」
「和議の仲立ちを。そして、あらゆる勢力を従え、朝廷を頂に仰ぐ新たな施政を整えられませ」
「潰し合わせるのではなく、抱え込み、睨み合わせよと?」
「支える柱がひとつでは、そのひとつが折れれば屋台が崩れましょうが、柱がいくつもあれば、時に腐った柱を取り去ることもたやすきこと」
「熊野もまた、その一柱となるか」
「それが、新しき風の向かう先とあれば」
「風、か……。嵐に流され、再び飛び立つことはあたわぬと思うたが」
 ヒノエが浮かべる仄かな笑みに溜め息混じりに返し、視線を伏せてから院は呟くように嘯く。
「存外、しぶときもの。かの揚羽の銀色は、月ではなく、刃の耀きであったか」
 言って何を思うのか、瞑目した翁はふと声色を変える。
「鞘を失ってなお、刃であることをやめぬとは……たいしたものよ」
 それは、人生の先達者が後進を眺めやる慈愛。さすがに大狸とまで呼ばれる智慧者は、掌握している情報の量も質も、桁違いであるらしい。すべてを見透かした上での発言に、ヒノエはそっと目を見開く。
「よかろう。神意とあっては逆らえぬ。まして、三種の神器が還され、有能な人材を揃って朝廷に抱える機会とあらば、余にとっても悪い話ではない」
「では」
 ふう、と。大儀そうに息をつき、そして与えられた承服の言葉に、ヒノエは額づいて決定打を待つ。
「源平両家の争いを、和議をもって収めるよう院宣を出そう」
「ご英断、まことありがたきことと存じます」
「余にこれだけの要求を突きつけたのだ。決して期待を裏切ってくれるな」
「刮目に値する新しき時代の幕開けを、熊野別当が全力を持ってお支えしますこと、お約束いたしましょう」
 ますます頭を下げて正しく額を床に擦りつけたまま、ヒノエは新しき風に呑まれた古きしがらみが退席する音を、感慨深く聞いていた。


(送るもの、往くもの、受け継ぐもの)
(忘れない、あなたのその容赦なく何よりも厳しい慈愛を、だから、)
(こうして道を選び、こうして道を譲られ、そのすべてを踏み越えて、往く)

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。