争うこと
ガンッ、と。武骨で不穏で容赦ない残響を引き連れてそれぞれ間合いを取ったところまでは鏡映しのように同じ動きだったが、続く切っ先の向かう方向が違った。弾かれた勢いであらぬ方向を向いたそれと、想定外の方向転換を利用してくるりと身を翻し、さらに回転速度をかけて閃いたそれと。
世の中の現象は、大概何でもエネルギーに換算できるらしい。熱も、光も、位置も、動きも。
特に明快な目的があったわけではないが、将臣は高校二年生に進級する際の文理選択で、理系を選んでいる。あえて理由を挙げるとすれば、基本となる原理原則を理解してしまえばあとは自分の応用力にかかっている科目が多い方が、暗記への労力が少なくてすむと思った、といったところか。一応、不謹慎な発想であることは自覚しているため、誰に告げたこともないが。
姿勢を立て直すよりも先に、握りに近い部分を鋭く打ち据えられた。びりびりと振動が伝わり、握力が緩んだところでもう一撃。
「心ここにあらず、といったご様子ですね」
ついに地面に落とされた木刀を反射的に視線で追いかけた視線の先とは真逆から、どこか呆れた様子の声が響く。
「わたしと打ち合うことも、時間の無駄ではないと、おわかりいただけましたか?」
「途中から殺気を上乗せされてるように感じてたの、あってたワケだ?」
「無益な修練であったと、そう思っていただきたくありませんので」
仮にも平家総領と多くの将兵から仰がれ、傅かれる将臣に対して微塵の敬意も払う気配はなく、嫣然と笑うのはごく普通の娘。
いや、普通という定義は不適切か。彼女を普通などと称しては、世の中のそれこそ普通の娘らにどういう形容を与えればいいのかがわからなくなる。彼女は異様で異常だ。無論、最上級の褒め言葉として。
彼女がいなければなせなかったこと、彼女がいたからこそなせたことがある。それに何より、彼女はとある男にとって非常に特別な存在なのだ。ゆえに、異常。なぜなら、その男にとって彼女のような存在はふたつとなく、他の誰であってもその立場を埋められないということが、男を少しでも深く知るものにとっては明白なのだから。
「お見事ですね。さすがは月天将殿」
「重衡、俺への慰めの言葉は?」
「月天将殿を相手取りながらよそ事を考えられるとは、よほどのゆとりとお見受けします」
かくも色々と有り余っているのでしたら、続けて私の鍛錬の相手もしていただきましょうか。
二人の鍛錬を簀子縁から見学していた男が、にこにこと笑いながら口をはさんだ。それこそ嫣然と微笑む美貌は眩しいが、細められた双眸の奥が笑っていないことを悲しいかな、将臣は正しく読み取っていた。似ているのは外見ばかりと多くの者が嘯くが、それは重衡という男の本質が見えていなくて、知盛という男の擬態に騙されているだけだと将臣は知っている。
知盛はあれでいて優しいし、重衡はこれでいて激情家だ。そしてそろって戦闘力が非常に高い。確かに思考に気を取られて敗北を喫したが、それまで手を抜いていたわけでもなく、手を抜けるゆとりがあったわけもなく。かなりの疲労に四肢を支配されているというのに、ここで体力が十全な重衡と鍛錬を重ねるなど、愚の骨頂のさらに上空を駆け抜けるのに等しい。
「あーあ。結局、今日も勝てずじまいか」
「本気で勝つ気がおありですか?」
「大あり! なけりゃこんな危険なまね、するわけねぇし」
危険なまね、というのは、別に彼女との鍛錬を示しているわけではない。曖昧な言い方をしたところで、そして彼女がその意味を取り違えるわけもなく、重衡はなおのこと。複雑な表情で黙りこんだ夜闇色の瞳と、仕方なさげに苦笑した淡紫の瞳が、同時に瞬いて優しく和む。
「さてと。そろそろ潮時かな」
三十六計逃げるに如かず。戦上手の呼び声高い還内府は、名誉のための犠牲よりも最小限の犠牲による実利をこそ重んじる。逃げてそれで事が片付くなら、大いに結構。余計なリスクは負わないに限る。リスクが大きければ大きいほど。
地面に転がっていた木刀を拾い上げ、年齢不相応にも「どっこいしょ」などと言いながら伸ばしかけた腰は、しかし瞬時に沈められていた。
もはやこれは条件反射。脳で考えたのではなく、脊髄による命令。ごろりと地を転がり、距離をとってから低く姿勢を整えて睨み据えた先には、遠慮容赦なく抜き身の切っ先。
「――って、危ねぇだろうがッ!!」
「おや。何やら楽しげに鍛錬をなさっておいでのようだったので、混ぜていただこうと、そう思っただけだというのに」
兄上はつれないな、と。まったくもってそんなこと微塵も思ってはいないと明白に語る声音で白々しく言いながら、にったりと細められたのは深紫の双眸。いつの間に戻ってきたのか、今日はまだ留守にしているはずの邸の主。
「まあ、いい。……お相手、願おうか」
問いかけるようでいて断定の口上が終わる瞬間は、とっさに将臣の掲げた木刀から木屑が飛び散る瞬間であった。危ないとか、真剣と木刀では不公平だとか、そんな訴えは聞き入れられない。逃げて逃げて、簀子縁まで手が届く距離まで必死に逃げてから、得物を取り換えて振り返る。
「俺が勝ったら、お前のとっておきの酒を一瓶な!」
「では俺は、執務の一日分で許してやろう」
「ンなもん聞けるか……って、おい! ちょ、待てってばッ!!」
一方的に勝利条件を突きつけあって、体制を整えきれない将臣に、好機とばかりに襲いかかる知盛は実に愉しげに笑っている。楽しげだ。それはもう、この上なく。そして同時に八つ当たりの気配がするのは、果たして彼女の気のせいなのか。
「どうやら、明日は一日、邸にて寛がれるおつもりのご様子ですね」
さりげなく重衡の脇まで下がることで難を逃れた娘の耳に、これまた楽しげな声がさらりと告げる。
「これぞまさに、恋の鞘当てと言ったところでしょうか」
「頭の君様」
声音は実に真面目な様子に改められていたが、巡らされた視線が大爆笑している。からかってくれるなと訴えるつもりで呼びかける娘の声は、剣戟に混じる「重衡ッ! 煽るようなこと言うんじゃねぇよ!!」という悲鳴に塗り潰される。かくしてあっという間に二度目の敗北を喫した将臣が翌日、最近はめったになくなっていた筋肉痛に呻きながら苦手な書類仕事に埋もれているのは、場に居合わせる誰の目にも明らかな近未来の情景であった。
Fin.