朔夜のうさぎは夢を見る

恐れること

「お前は、何か恐れるものなどないのか?」
「法皇様が気まぐれであられることは、何とも耐えがたき恐怖にございますが」
「そうではない。そういう意味ではないと、わかっておろうが」
 まったくもって捻くれた性格であることよの。どこもかしこもおかしげに、けれど忌々しさを完璧に作り込んだ声で嘯き、後白河院は目の前に座す青年のことをじっくりと観察する。
 泰然自若。悠々自適。何もかもに無頓着かつ奔放であるように思わせて、実のところ誰よりも老獪で緻密な策謀を巡らせる食わせ者。知れば知るほど、つつけばつつくほど、使えば使うほどに新たな側面と深みをみせるこの青年には、逸材という言葉が良く似合う。
 彼の父も兄も、その他の親族も、皆基本的に非常に能力の高い人材が揃っていたが、後白河院は青年のことがとみに気に入っている。なぜなら彼は自分にひどく似通っていて、そのくせまったく別の根源を抱えていると直観しているから。


 敵も味方も蒼褪めるほどの毒舌と遠慮のない物言い。けしからんことと声を荒立てる近臣達を手ずから黙らせたのは、その言い分にしっかと通った筋を見出したからだ。筋が通っており、理に適っており、何よりその向こうには未来が透ける。
 彼にとってのみ有益なのではなく、目を逸らしたままではいけないとわかっている、未来の案件を包括した言い分。ならばここで膿を見据えておくのもよかろうと、そう思えるほどには後白河院は自分が鷹揚な性質であることを自覚している。為政者である以上、家臣の箴言にも多少は耳を貸さねばなるまい。まして、その箴言を口にする者の能力を既に見知っており、実力を認めているのであればなおのこと、だ。
 もうやめてくれと無言で訴えていた源平両家の若き将に免じて一旦は場を開いたものの、こうして手元に青年を残したのは後白河院が事の本質を見失っていないがゆえに。この青年のこと、たとえどんな場であろうと隠しも繕いも出し抜きもすまい。そうと知っているから気安く話を聞くつもりになったし、今のうちに青年の考えを押さえておこうというつもりになったのだ。


 国政の中枢を離れてより少なからぬ時間が流れたというのに、青年の勘はまるで鈍っておらず、後白河院は自分の心眼の確かさに満足した。そして、その満足感のまま酒でも交わすかと誘いかけ、それこそ近臣の誰がしかに見つかれば卒倒されかねない異例の席を共にしている。
「お前を見ておると、余は、“おそれ”とは何であるかということを、しみじみ考えさせられる」
「と、申されますと?」
「多くのものが恐れるおよそすべてを、お前はまるで恐れようともせぬ。地位を失うことも、財を失うことも。あるいは、」
 命を喪うということでさえも。
 真剣と呼ぶには気のない様子で、からかうよりは真摯に。真意を読みとらせない声音で言葉を弄すのは、後白河院の最も得意とするところ。そんな程度の揺さぶりでは器の底など微塵も垣間見せないのが、青年の面白いところ。


 決して視線を合わせることなく、けれどちらと持ち上げられたことは明白。底の見えない深紫の双眸の向こうで、形の良い唇がうっすらと弧を描くのを、見る。
「これでも、人並みの恐怖心は……持ち合わせているつもりに、ございますが」
「ほぉ?」
 いかな劣勢に追い詰められようと、いかな絶望を突きつけられようと。常人であらば耐え切れなかろう状況を強靭に乗り切ればこその現状だろうに、嘯く言葉はあまりにもありきたり。気の削がれたような、興の乗ったような。己でも把握しきれない感慨にぼんやりと相槌の言葉をこぼせば、透明な微笑がぞっとするほどの自嘲に歪む。
「さもなくば、この身はすべてを切り捨てる終焉のために、ありとあらゆる策を巡らせたことでしょう」
 それでもどこまでも透明で奥深い声で紡がれたのは、後白河院の知らなかった青年の側面。喪うことを恐れればこそ、手に入れる未来を夢に見た。終焉ではなく、存続の可能性にすべてを懸けたのだと。
「どうぞ、お見知りおきください。……私は、こうして院に買いかぶられ、いつか失望されて見限られる可能性も……この上なく、恐れているのです」
 低く震える声が自嘲ではなく言葉通りの恐怖に揺れているのだと。疑う要因はどこにもなく、確信した根拠はどこにもない。後白河院はけれど自分の直感を信じるほどには青年との関係を直観ゆえに構築しており、そして、目の前の青年がやはり自分によく似た根源を抱えているのかもしれないと。それまでの考えを、ほんの少し改めることにした。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。