朔夜のうさぎは夢を見る

怒ること

 案内された先は、品良く手入れの行き届いた庭に面した一室だった。月明かりにしんと照らされた蒼白い空間に、思い返すのはいつかの宵。
 既に褥は用立てられていたらしいが、このまま眠りにつくには気が昂りすぎていることを知盛は自覚していた。かといって、今宵に限って女を抱くような気にもなれない。どんな美酒を呷ろうとももはや味気なくしか感じられないだろうことも明白。となれば、気を散じるための手段はただひとつ。
 手振りひとつで案内の女房を下がらせ、衣擦れの行く末を見返りもせずに夜の庭へと降り立つ。腰へと佩いた鞘から、流れるように刃を引き抜く。


 感情のままに振る舞ってはならないと、そう叩き込まれたのは物心がつくよりも前からのこと。思いに身を委ねてはならない。怜悧な判断を失ってはならない。己が身は己だけのものにあらず。ただ、一門のためのひとつの駒に過ぎない。
 そのことを不幸だと思ったことはない。幸か不幸かを判じる以前に、知盛はそれ以外の在り方を知らなかった。知盛の目に映る限り、誰もがその肩書きゆえに在るものばかりだった。
 負う名ゆえに力があり義務があり権利があり、自由があり、不自由があった。
 負う名ゆえに、立場ゆえに、それぞれがそれぞれの制約の中で生きるしかないことを知っていた。そのことに幾ばくかの息苦しさを感じることはあっても、それこそが己の宿業と思って生きてきた。
 ゆえにわかっている。何を思うよりも先に、状況を冷徹に俯瞰することを叩きこまれた思考回路が、前後の顛末も含めて事情を怜悧に推察している。
 あの娘は名を高めた。あの娘は女だった。あの娘は囚われて、殺されることなく生かされていた。
 そう、そうだ。それだけのこと。たったそれだけの条件ゆえに、導き出されるべきだったただひとつの、そして最大の可能性。噂には聞いていた。それは手に入れた数多の情報のひとつだった。それでもつい先ほどの、あの瞬間まで。知盛は自分がその可能性から目を逸らしていることに、気づこうとしていなかったのだ。


 振りぬかれた刃が、凶暴な風切音を立てて宙を奔る。流麗さに欠ける、武骨な動き。荒々しいそれは下手な戦場における剣戟よりもよほど殺気に満ちていて、重く、昏い。
 持て余すばかりの内情をすべて切っ先に篭め、舞う己の周囲で木々がざわめくのを第六感に聞いている。
 一通りを舞い上げたところで、ざわめく内心はちっとも治まらない。続けて二つ、三つと舞いながら、慣れないばかりの胸の内を、知盛はようやく理解する。
 ああ、なるほど。これが怒りという感情か。
 遣る瀬無く、ぶつける先も見えず、ただひたすらに牙を剥くだけの獰猛な衝動。苛立ちなどというかわいらしいものではない。きっと下手人をこの刃で八つ裂きにしたところで、塗り潰せるはずのない過去ゆえに決して満たされることのない餓え。
 致し方のないことと、理解していながらも今にも暴れ出そうとする、何故自分を拒んだのかと叫ぶ思い。
 ざっと音を立てて足を止め、空を断ち切るように眼前を振り抜いた刃がだらりと地に向かう。どれほど舞っていたかなどわからない。ただ、常になく荒々しい動きについに音を上げた喉が、情けなくも喘鳴をこぼしているのを知る。
 立っていることさえ億劫になり、四肢から力を抜いて地面にゆらりと倒れ込む。これほど動き続けてもなお収まることのない腹の底のどす黒い焔に、叫び出したい衝動を必死に噛み殺す。


 情けないこと。そう思う反面、冷静さをどうしても塗り潰すことのできない思考回路が囁くのはこの感情に不慣れである己の幸運。
 びりびりと張りつめた神経は、荒ぶる金気に怯える木気の悲鳴など歯牙にもかけず、ただひたすらに水底の気配を探っている。知覚の隅で捉えたそれが泣いているのを感じながら、手が届くならきっと無理にでも自分の方を向かせて、何故振り払うのかと詰ってしまうことを自覚している。
 大きく上下する肩はそのまま、太刀を地面に置き去りに、知盛は両腕で目元をすっぽりと覆い隠した。闇夜に散るかそけき光さえも瞳に入ることのないように。溢れてしまう激情を、誰にも見られることのないように。
 こんなにも悔しいのに。こんなにも辛いのに。こんなにも理不尽な思いに駆られているのに。
 だというのに、怒りも絶望も、何もかもを俯瞰しては状況と己の立ち位置とを照らし合わせる癖が抜けない。
 その反射的な思考回路が必要不可欠だと認識している己がいることが何よりも不快で、けれどそれこそが現実で。
 どこにもぶつけようのない己への怒りに歯噛みしながら、知盛は小さく喉の奥で呼吸を揺らしていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。