朔夜のうさぎは夢を見る

群がること

 ざわめきというものは、非常にわかりやすい存在感を放っている。それを構成するひとつひとつの単語を聞きとるのは案外困難なことなのだが、ざわめきそのものは本当にわかりやすい。発生の瞬間も、移ろう姿も、満ちる様子も。


 立ち上るのは決して小さくはない喧噪。誰かの声が、潜めながらも確かに「あれが」と呟いた。その声が向けられる方角にあっという間にいくつもの意識と視線とが流され、同調するように「ああ」「あれが」「ほぉ」「なるほど」と言葉が積み重なっていく。
「……気になるか?」
 殺しきれないむずがゆさに居心地の悪さを覚え、思わず身じろいだ様子を目敏く捉えたのだろう。笑いを殺しながらふと落とされた声に、は思わず眉間に皺を刻む。
「気にならないのですか?」
「ならんな」
 声に出してから間抜けな質問だったとすぐに思い至ったのだが、放たれた言葉に取り消しはきかない。案の定、知盛は実にあっさりと否定の言葉を紡ぐ。
「気にしたところで、仕方なかろう」
「それは、そうなのですけれど」
 ゆるゆると足を運ぶのにつられるように、ざわめきもまた移動していく。後には残響に似た声の重なりを。先には予兆に似た声の重なりを。ただ二人の周りだけが、ぽっかりと沈黙に満たされている。声の代わりに、たっぷりの視線を詰め込んで。


 自分達があらゆる注目をひきつける立場にあることの自覚はあるため、これは一種の有名税だと割り切ってはいる。耳目を集めるのは非常に面倒で厄介な反面、何よりも有用かつ重要な切り札となる。
 のような血縁による後ろ盾のない身にとっては特に、社会的な存在感を固めるのに必要なのは人々からの認識。女の身でありながら文字通り顔が広く知られていることは眉を顰められるに値するのだが、それを凌駕するほどの重みを獲得してしまえば、うるさく言う輩も封じ込められる。
 そんな些細な声など、それこそざわめきの向こうに埋もれてしまうのだから。


 目的地に向かいながら、そういえば、この人は位階も血筋も申し分ないことに加え、人々の耳目を引きつけ、噂の源になるのに事欠かない人だったと思い出した。恐ろしいほど客観的に己に課された殻を認識し、それを実に有効に活用できる人。この程度のざわめきに揉まれることなど、日常茶飯事であったことだろう。
「群れれば噂話に花が咲き、その噂話の向こうでこそ諸事が決されるのが、雲の上の在り方」
 喉を鳴らして何でもないように落とされたのは、そしてあまりにも物騒であからさまな揶揄の言葉。低められた声であるとはいえ、それこそどこで誰に聞かれているかもしれない。びくりと肩を揺らしたにさらに笑声を降らせて、当人たる知盛はまるで気にした風もなく続ける。
「そういうものだ、と。慣れれば、気にならなくなる」
 気にならないとは、真理であり大嘘でもあろうに。ごくあっさりと嘯く知盛を横目にちらと見上げて、は細く溜め息を吐き出した。気になってなどいないだろうが、気にしてはいるのだ。そうでなければ、逆手に取ることなどできようはずもない。
「お前が気にすることではない。捨ておけ」
「捨ておくだけで、よろしいですか?」
「あとは、俺の領分ゆえな。お任せいただけるだけの信を、得てはいよう?」
 からかうように問われる内容に否やはなく、肯定を返そうとした声はしかし、思わず飲み込んだ息と共に肺腑の底へ。
「有象無象に目を奪われるとは、しかし、不愉快だな」
 群れるだけの奴らになぞ、お前をくれてやるつもりはないぞ。低く紡ぐ声と共に刻まれた艶笑は、ざわりとゆらめいた周囲の気配に呑まれることなどなく、鮮やかに際立つばかりだったのだ。


Fin.

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