命を尊ぶこと
雪の降る音さえ聞こえてきそうなほどに、本当に静かな夜だった。御簾を下ろし、几帳を張り巡らせ、火桶に炭は絶やさない。幾重にも幾重にも衣をかけてやり、まかり間違ってもこのまま病なぞ得ぬよう細心の注意を払う。そうしてすよすよと穏やかに寝息を立てて眠る娘を見やり、けれど知盛の心は安んじられない。
指を伸べて、いたずらに前髪を梳いてみる。零れる髪は芯まですっかり冷えているようで、どこかしっとり濡れているような手触りであった。寝汗をかいているのであれば、拭ってやらねばなるまい。確かめるように地肌を指で辿れば、仄かな体温を奥に隠して、すっかり冷え切ってしまった感触。
大気の、刺すような冷たさとは違う。水や氷のあの冷たさとも違う。耐え切れないような冷たさではない。むしろ、体温によっていくばくか温められているのだから、生ぬるいといったところか。それでも、何に触れるよりも知盛はこの中途半端な冷たさが嫌いだった。
あたたかくやわらかくあるべきなのに、冷たくしっとりと硬質な印象を伝える人肌。ああだってそれは、彼女から鼓動が消え去り、血の流れが滞り、呼吸が沈んでもう二度と何もかもすべてが手にできないような、そんな錯覚を与えるものでしかないのだから。
誰かの耳目があれば決して曝すことのない、すべてが抜け落ちた人形のような無表情で、知盛は夜闇の中に佇んでいた。手持無沙汰に娘の肌を指で辿り、身じろぎもせず眠っているのだから乱れるはずもない上掛けの衣をそっと整え、風の吹きこむ隙間もない部屋の中で、乱れるはずのない髪をそっと撫でつける。
無防備な首筋に指を当てれば、冷たい皮膚の向こうに静かな拍動が感じ取れる。それを探しては眉根を寄せ、静寂を乱しそうになる溜め息を何度となく呑みこんでいく。
知盛は、神仏の存在なぞあてにはしていない。
信じていない、とは言わない。なにせ己が目でそのカタチを見、告げる神託を耳で聞いたことがあるのだ。存在そのものを否定するには、あまりに具体的な事例を見知りすぎている。しかし、頼った覚えはないし、自ら招いた覚えもない。
信じるものを否定するつもりはなかったが、知盛はそれが己に必要のない行為であることを知っていた。神仏に縋る暇があるのなら、必要な知識を蓄え、技術を磨き、自らの力で踏破すればいい。障害は打ち砕け。策を巡らせ、目指す先を見失うな。その方が早く確実に結果を得られるということも、己にはそうして結果を掴みとる力があるということも、知盛は良くよく知っていたのだ。
神は確かに存在する。神は確かに世界を構成し、世界に恵みを齎しているのだろう。だが、それだけ。
神仏が目の前にいる敵を屠ってくれるか。答えは否。
神仏に祈って病の治った姿を見たことはあるか。答えは否。
ゆえに知盛は神仏の存在なぞあてにはしない。祈ることで己の無力さから目を逸らし、心の安寧を得る人々をあえて糾弾するつもりはないが、自分には必要のないことだと思っていた。目を逸らしたところで結末は変わらない。なれば隅々まで余すことなくその目に映すことでこそ、自分は心の安寧を得られる性質だと自覚していたのだ。
だから、今宵の己の姿が知盛は滑稽で仕方なかった。
祈ったところで何になる。縋ったところで何が変わる。
わかっていて、だから己の目で結末へと続く行程のすべてを見届けようと決めて枕辺に居座り、そして知盛は気づけば祈っている。彼女を加護する神に。平家が祭る厳島の神に。何度となく足を運んだ熊野の神に。
喪いたくない。喪われるべきではない。喪われていいはずがない。
どうかどうか、助けてほしい。再び目を開けてほしいだけ。声を聞かせてほしいだけ。指を差し伸べて、髪を梳いてもらいたい。いたずらに笑いながら言葉遊びに興じて、時に扇を片手に舞を合わせ、時に刃を片手に舞を合わせ。
長兄が臥した際には祈る気持ちよりも諦めと彼という存在を喪った後の一門のことを冷徹に俯瞰する思いの方が勝ったというのに、かの偉大なる存在とはまったく価値の重みの違う小娘を前に、知盛はひたすらに祈り続けている。
伽藍を守ったのはこの娘だ。南都の民を守ったのはこの娘だ。ならばこの娘には、仏の慈悲を受けるだけの権利があるだろう。
膝に置いた指先が、衣に深く皺を刻んでいる。そんな風に扱っては布が傷んでしまいますと、諫める声が耳の奥でやわらに揺れる。
己の命について、知盛は生きてさえいればそれで、という考えなど持ったことはない。たとえばそれが幼い帝や老いた母が相手であっても、血を分けた弟に対しても、同じことだと思っている。
恥に甘んじ誇りを踏み躙り、そうまでして命を繋いでなんとする。自分達は平家の名を負い、現し、より高みにいざなうための駒にして布石。時と場合によっては、死をもって初めて価値を持つこともあろうと考えている。そう在るべしと生きてきた自分にとっては、それこそが生きることへの敬意であると思っている。それは少なからず、どんな命にとっても同様だろうというのが知盛の信念だ。
だが、それでも。それでも、死を目前にすれば祈らざるをえないことがあるのだと、知盛はこの瞬間に思い知っている。
このままそっと呼吸を絶やしたとしても、彼女の命の尊厳は損なわれない。仏敵という汚名を纏いかけた平家を救った姫神子として、永く尊崇を集め名を歴史に刻むだろう。それはひどく高潔な死。それはひどく鮮烈な生。そうなったところで、知盛は彼女の命が脆弱だったと嗤いはしないし、彼女の生き様を素直に認める。けれど、そうではないのだ。
強く強く祈りながら、知盛はもう一度、いたずらに彼女の前髪を梳いてみた。濡れているのかと錯覚するほどに冷えた髪の絹のように滑らかな感触に、彼女がまだ生きていることを確認して。知盛はひたすらに、生きるという奇蹟を保つことを畏れながら、あてになどできぬ神仏に、尊くて仕方ない彼女の命に。祈りを捧げ続けていた。
Fin.