非合理的存在であること
「解せんな」
「あら、何がですの?」
ほとりと落ちた巌のごとき声に、応じたのは鈴を転がすような明るい問いかけ。言葉の端々に殺しきれない愛しさと笑みを滲ませた、いっそあどけない様が妖艶な。
「何もかもすべてが、だ」
けれど巌は動じない。それまでと調子をまったく変えずに淡々と応じ、手の内で揺らしていた杯から酒精をわずか、舐める。
「何が、あの男を変えた? いったい何が、あの男に時流をも動かさせたのだ?」
「時流は、ただ一人の思惑で動くものではありませんわ」
「では何ゆえに、どこから動いた?」
「ふふ、珍しいですわね」
常は寡黙な巌が珍しくも間髪置かずに問答を続けることが素直におかしくて、鈴はころころと声を揺らす。
「そんなにも気になさるだなんて。なんだか、妬けてしまいますわ」
「お前の目には、何が映る?」
だが、愛くるしい言葉にはまるで応じず、巌は淡々と己の思いを紡ぐのみ。そして無論、そんな巌に慣れており、その様さえ愛おしんでいる鈴が、その程度で気分を害することなどありえなく。
「神の目には、人の目では映せぬしがらみが見透かせるものか?」
問いかけに応えるまでに挟まれた呼吸二つ分の沈黙を埋めた笑みは、それこそ人の命では計り知れないほどの時間の蓄積を湛えて、静かに静かに場を支配する。
「ねぇ、あなた。ヒトとは本当に、不可解なモノですわね」
呼んで巌の肩にしなだれかかる鈴は、けれど重さをろくに感じさせない。その身は確かに人なのに、中に神を同居させることで人から乖離したその不可思議を体現する、一端。
「理不尽で、支離滅裂で。それでいて筋の曲がったことには疑問を呈するだなんて。本当に、よくわからないこと」
くすくすと喉を鳴らしてばかりの鈴に、巌は答えず酒を舐める。
「“わたくし”は、時流を変えたいと願いましたの」
ふと、声音から笑みが削ぎ落とされた。
「あなたと出会い、あなたに惹かれ、あなたの力になりたいと願い」
言いながらあてどなく宙に伸ばされた指先は、細く白く、美しい。武家の血を継ぐことを誇り、雲上にあるばかりの者々に弓引くことで時世を動かそうとした巌の力になるには、あまりにも頼りない、それ。
「ゆえにわたくしの声を聴いたのでしょう。わたくしもまた、あなたという存在に惹かれ、違えど同じく愛していたから」
引き戻された指先が、優雅な動きで鈴の胸元に寄せられる。
「この世界はね、歪み過ぎてしまっていますの。もうどこで何が変わったのかなど、わたくしにもわかりませんわ」
「神なる視点をもってさえ、見透かせぬモノがあるというのか?」
「その筆頭が、ヒトというモノの在り方ですのよ」
ようやく返された問いに元と同じく笑い混じりの声を差し伸べ、鈴は巌がかくな問答を始めるに至ったきっかけたる文に、手を伸ばす。
既に報せは受けていたが、荒唐無稽な話だと断じたのはきっと巌も鈴も同じことだった。同じく、既に次の一手に関する話は通っていたのだ。和議を餌に一息に追い詰め、三種の神器を奪還すること。その成果をもって、東国統治を正式に朝廷に認めさせること。
院を介した和議の打診さえ罠に降すのだから、無論、それを知っているのはごくごく限られた面々だった。だからこそ、義弟が携えてきた「和議を命ずる院宣が下る」との報せさえ、次なる一手のためのかの老獪な大狸による伏線がひとつかと巌は考えていたのだ。だというのに。
「新中納言殿を変えたのは、月天将とかいう娘でしょうね」
「処断せなんだ私の甘さが招いた事態か」
「あの段で無理に殺していては、寺社勢力をあらかた敵に回しましたわ」
「では、お前はどう思う?」
「あなたの判断が誤っていたのではなくて」
そこでひとつ息を吸い、終始どこか何かを嗤う気配を滲ませていた声が、はじめて真摯に張り詰める。
「ヒトのヒトたる理不尽さを守りと成した新中納言殿が、一歩先んじていたということでしょう」
「すなわち、時流がはじめからあの男に味方していたということか?」
「まあ、そういう側面もありますわね」
さすがに、人と人との出会いの時期は、神なる力をもってしても動かせない。出会い、縁を結び、その関係をどう築いていくかは当事者にのみ許された特権。ゆえに巌は鈴を手に入れ、ゆえにあの男はあの娘を手に入れた。こればかりは互いが互いに世の常識からかけ離れているため、一方的な糾弾は誰の目にも滑稽にしか映らないだろう。
「貴族としての在り方に染まった一門を、すっかり見限ったと思っていたが」
「同じように断じたからこそ、熊野も一度は牙を剥いたのでしょう?」
「還内府がいくら院に繋ごうが、それだけならば覆せたものを」
「ゆえにと見限りかけた公達としての日々が、おおいな助けになったのですから皮肉ですわね」
「死に場を求めてさまよう幽鬼が、いったいいずこで蘇ったというのだ」
「あら、言い得て妙なお言葉ですこと」
呻くように詰るように、けれどどこかで認めて敬うように。紡がれた言葉の真偽も真意も鈴は気にしない。黄泉より還りしと謡われる生き人を頂に据えた一門において、生きながらに死していた存在が息を吹き返したという譬えのはまりように、ただただ愉快と喉を鳴らす。
「確かに、こうして彼我の争いが和議にて終結してしまうそのきっかけは、突き詰めれば新中納言殿にあるとも言えましょうね」
その麾下に擁する姫武者をもって寺社勢力に畏敬を抱かせた。還内府だけでは力不足だったろう朝廷との繋がりを保ち続けた。生き残った宗家の嫡流として、一門に対する絶大なる影響力を余すことなく利用し尽くした。類稀なる才持つ僥将として、平家一門に尽くし、その武家としての栄光がいまだ衰えておらぬことを世に示した。
何かひとつでも欠けていたとすれば、このような結末は訪れなかっただろう。万一、和議が現実のものになったとしても、少なくとも源平両家が等しく並び立つという事態にはならなかった。零落し、滅びをかろうじて免れた武家の一門として、あるいは恥を曝して生き永らえるという屈辱を永劫抱えたかもしれないのに。
「あの男の真髄は、もののふだ。だというのに死に場を自ら投げ捨ててまで、いったいなぜあの男は和議へと走った?」
「その矛盾こそが、ヒトのヒトたる不可解さというものでしょう?」
別に巌は、決してしまった現実を嘆いているわけではない。呪っているわけでもなければ、詰っているわけでもない。ただ、これまで外れたことのなかった己が心眼の正しさを自負していればこそ、矛盾だらけで理解しがたい存在に行き当たり、湧いた疑問を放置できなくなったというだけのこと。
「在り方を歪めて生きることなど、ヒトにしかなせないことですわ。獣にも、妖にも、神にも。その在り方ばかりは、理解しえない混沌ですの」
目指していた先をいささか方向修正せねばならなくなったが、巌はこのまま未来へと邁進するだろう。無謀な理想を掲げ続けるのではなく、現実的に手にできるすべてを手にしながら、定めた道を往くだろう。巌がそれに納得することもわかっている。けれど、鈴はそれでは物足りない。
「ではお前には、私もそのように映るのか?」
「時と場合によりけり、ですけれど」
ふふ、と愛らしく笑声を空に散らして、鈴はひそりと瞼を下ろす。
「私には、お前も同じく不可解に映るが」
「あら、ではわたくしは、もしかしたらまったき神ではなくなってしまったのかもしれませんわね」
それでも、鈴は構わないと思う。巌は人だ。ヒトはしがらみの中で生きており、名を負い、名に縛られて生きねばならない。ゆえにと巌が無意識に諦め、折り合いをつけるすべてを、鈴は人ならぬ感性で欲し続け、与えることをこそ願う。
「けれど、わたくしは在り方を歪めることなどできませんのよ?」
「好きにするといい。私は私の道を行き、お前を縛ることはない」
「ええ、知っていますわ」
だから鈴は好きにする。この流れが巌がはじめに思い描いた時流でないのだとするのなら、源流へと戻せばいい。その思惑が結実しようとしなかろうと、巌は別に誰のことも何のことも詰らず、罵らず、褒めもしない非常に不可解な存在であることを、鈴は誰よりもよく知っている。
Fin.