朔夜のうさぎは夢を見る

時間を体験すること

「荒れてるな」
「……何用か」
「そう殺気立つなよ。俺がここで騒ぎを起こすつもりなんかねぇことぐらい、わかってんだろ?」
「俺は、何用かと、そう問うている」
 飄々とした物言いにはまるで反応を示さず、ほんのわずかに語気を強めた知盛に、いつの間にやら客間としてあてがわれた房室の柱にもたれていた男は、瞬きをひとつ。
「珍しい」
 声が感慨に濡れたのは自覚があり、そして隠すつもりは微塵もなかった。隠す必要などない。なにせ、すべてはもはや決されたのだ。思い悩む必要はなくなり、穿つ必要もなくなった。今は、人生の先達としてこのらしからぬふてぶてしい若輩者の青臭い悩みに、ほんの少し助言をするつもりがある程度のこと。


 官位を剥奪され、領地を取り上げられ、都を落ちて決して裕福とはいえない生活を送っていただろうに、さすがの嫡子はやはり違うのか。纏う衣は上質にして上等。いたずらに泥土をつけることの意味をわからないほどその贅に盲目というわけでもないだろうに、知盛は夜露に濡れる地面に寝転がったきり、目元から腕をどかそうとさえしない。
「そうやってる姿は、ガキの頃とろくに変わらねぇのに」
 からかうように投げかけた言葉へは、むっつりとした沈黙。好きなように言えとも、聞く耳もたずともとれるだんまりは、しかし頼りなく張り詰めた空気が雄弁に裏切っている。触れれば弾け、崩れ、きっと彼を奈落の底に突き落とすだろう危うい均衡。
 最後の一線をぎりぎりに保つのは彼の強靭な理性であり意地であり尊厳であり、どうしようもない仮面。哀れなこと。その感慨を隠すことなく呼気に篭めて、湛快は静かに双眸を眇める。
「まったく、揃いも揃って難儀なもんだな。お前ぇらは」
 嫌味にも皮肉にも感慨にも、まるで反応を示さない。やはりぴくりとも動かない様子にもう一度溜め息をつき、湛快はそれから首を横に振った。
 いや、示せないのだろう。
 可哀想なこと、憐れなこと。湧き起こる感慨のすべてを宙に散らすことなく胸に沈めながら、ゆるりと瞬きを繰り返す。


 熊野は、いわば一つの国である。頭領たる別当を頂きに据え、確固たる絆と規律とで成り立っている。よって、宮中のそれとは違えども役目と責務があり、源平両家とは違えども身分の上下がある。違えども同じ重責があり、察することのできる心痛がある。
 湛快も一度は頭領を務めた身だ。そして、嫡流としての人生を歩み続けている。だからこそ知っていることがあるし、共感できることがある。歩んできた道、身を浸した世界、求められる責務、取り巻く周辺環境やら人間関係。ありとあらゆるところに相違点はあれど、わかるものはわかると思うし、知盛以上の年月をその身に刻んでいればこそ、察せるものも少なくない。
「もう、仕舞いだろうが。少なくともここでぐらい、肩の力を抜いても誰にも見咎められはしねぇぞ?」
 だから、こうして淡々と口にする慰めが、文字通り言葉だけの慰めになりうるということもわかっていた。それでも、この声に甘えて嗚咽を漏らすというのなら、潮騒の向こうに隠してやるだけの心積もりもあった。
 報われていいのに、報われるべきなのに、誰よりも報われない道を選んで邁進する高潔さを悼むほどには、湛快は平知盛という男を認めている。そうして甘えていい局面でさえ意地を張り、仮面を微塵もずらさない強靭さと不器用さを、察している。


 頃合いを読んでここへと向かう最中は確かに揺らいでいた気配が、今では凪いだ水面のよう。ああ、違う。凍てついているのだ。そよ風にも強風にもつれなくする、融通のきかない頑なさ。何を言ってもぴくりとも反応を示さず、視線も声も寄越さず、呼吸を殺してひたすらに横臥している輪郭が、夜闇に溶けていくような錯覚を覚える。
「和議を結びたいなんて、何を寝言を言ってんのかと思ったが、うちの倅までうまいこと動かしやがって」
 恨み言ではない。源平両家のいさかいが和議にて納まるのならば、熊野もまた甘い汁を啜ることになる。益のない駆け引きに応じるほど、当代別当も馬鹿ではない。それに、ことのあらましを事後報告として受けた湛快としても、今回の顛末は実によくできていると思えたのだ。
 そう、よく出来過ぎている。空恐ろしく、嘘寒いほどに。
「何を企んでいる?」
 労わるつもりもあった。らしくない様子だという報告も気になったし、広間でのひと悶着も聞いていた。よって色々な思惑を抱えて訪ねてきたというのに、いたわりもねぎらいもすべてを拒絶されたなら、最後に手向けられるのはどうしても払拭しきれなかった疑念のみ。


 こうもあからさまに弱っている相手にぶつけるのは酷だという思考が脳裏で瞬いているが、この相手ならば大丈夫だろうという信頼にも似た確信があったのも事実。そして、これこそ完全に無視を決め込まれるかはぐらかされるだけだろうと思っていたのに、闇の底、目元を覆う腕の下で、形の良い唇がゆっくりとほどかれる。
「たとえ、何を企んでいたとしても」
 放たれた声は、湛快の知る彼のもの。いつもと同じ、掴みどころがなく、何を考えているのかわかりにくい、平家は新中納言の纏う擬態。
「もう、仕舞い……だろう?」
 弱気な気配は微塵もなく、揶揄するように喉の奥で鳴らされた笑声が語尾を溶かす。けれど、声音も口調もすべてがふてぶてしいからこそ、力なく地に伏している姿があまりにも痛々しい。
 確かに、返された言葉は実に的を射ていて、湛快の懸念を軽やかに吹き飛ばす揺るぎ無い事実であった。違いない。もうすべては決し、流れは定まり、何があっても少なくとも熊野が実害を被ることはないだろう。この国を守る血脈として、湛快が知るべきことはこれで明らかとなった。しかし。


「明日には発つのか?」
「還内府殿さえ、その気ならな」
「発つとしたら、刻限は?」
「日の昇る頃には」
 必要な情報を聞きだしてから、溜め息を飲み込んで代わりに湛快は言うべきかどうかを迷っていた言葉を舌に載せた。
「なら、暁までは女房達を下げとくぞ」
 瑕がついたとはいえ、これほどの血筋、これほどの実力。自分も一目置いているし、当代別当も認めている相手なればこそ、そこそこ以上の女をあてがうのが礼儀にしてもてなしだと考えていたが、今夜ばかりは無頼を装う。
 無粋と罵るならそれでもいい。ここは熊野。京の流儀は知らないし、貴族の流儀は通用しない。返答も反応も期待せずに柱から身を起こし、するりと踵を返す背中を追いかけてきたのは吐息。言葉もなく、感慨など滲ませてもいない透明な呼気はそれでも確かに震えている。
 助言など必要はなかった。ただ先達としてできるのは、彼に時間を与えてやること。できるだけ長く、静かに、穏やかに。終焉に向かって駆ける最後に、仮面に亀裂の入らないよう取り繕うための時間を。
 そう思う自分は年をとって、そう振る舞う彼も年をとった。そして結局行き着く憐れみがまかり間違っても呼吸に滲まないうちにと、湛快はただ黙って、来た道を引き返していった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。