朔夜のうさぎは夢を見る

泣くこと

 いいから戻ってまっとうに休め、と。思いのほか強い語調で命じられたため、下手に逆らってはそれこそまっとうに休むことを必要としている主にいらぬ負担をかけるだろうと、はおとなしく自室に引き上げることにした。振り返って改めて数えてみれば、たかだか四日の出来事である。最中にあるうちはまるで終わらぬ地獄の劫火に身を焼かれるようなやるせなさだったというのに、喉元過ぎればなんとやら、とはこのことか。
 どこか現実感の薄い、ふわふわした心地ながらも体は馴染んだ動作をてきぱきとこなす。休めと言われたからには休むのが良い。確かに疲れているし、明朝からも主のために働くには、今夜ぐらいはしっかり眠る必要がある。しかし、身支度を整えても眠気は一向に訪れない。ふわふわと、疲れているのはわかるのに、眠りの世界に旅立てない。


 主は眠れているだろうか。急に熱が上がったりはしていないだろうか。そういえば、枕辺に提子と椀を用意してきたつもりだったが、中身はきちんと満たせていただろうか。かろうじて単衣は取り換えてもらったが、手の届く位置に代えを置いてくるのを忘れてしまった。
 とりとめなく溢れる思索はすべてすべて主へと向いており、どうにもこうにも落ち着かない。不安ばかりが積み上げられて、もどかしさに雁字搦めになる。
 どうしようかと考えるものの、を追い出すのを最後に完全に人払いをしていたのだ。下手に塗り籠めに近づいては、気配に聡い主の眠りを妨害することになりかねないと知っている。けれど、まったく眠れないことに変わりはない。どうしようかと思い悩み、仕方ないのでは御簾を絡げて与えられた局からそっと抜け出す。
 目指すのは、自室に面した廊の一角。もっと早くに気付いていれば、と。取り返しのつかない事態になっていた場合、はずっとこの場所のことを思い出すのだと知っていた。


 あの夜は、十六夜月が明るかった。夜が蒼くて、闇に映える桜吹雪が恐ろしいほどに美しかった。その美しさに沈むようにして眠る主が、やはりどこまでも美しかった。
 交わしたのはいつもの言葉遊び。けれど、それは本当に遊びにすぎなかったのだろうか。あの言葉の中に、何か重大な意味など孕まされてはいなかっただろうか。
「――眠れないのですか?」
 あの夜、主が深く深く眠りに落ちるまで座っていた場所に腰を下ろし、ぼんやりと夜闇を眺めていたは、そっとかけられた声に緩慢に首を巡らせる。
「これ以上無理をなさっては、知盛様がご心配なさいますよ」
「……わかってはいるのですが」
 はんなりと笑みながら距離を詰め、の隣に膝をついたのは安芸だった。
「少しは良くなりましたね」
 巡らせた首を固定するように両手でやわりとの頬を包み込み、瞳を覗き込みながら安芸は綺麗に微笑んだ。
「面やつれしてしまって、顔色も悪いですよ。重衡様が案じられるのも、無理からぬこと」
「……」
「けれど、私を見ることができるようになりましたね」
「え?」
 返す言葉もなく視線を揺らすことしかできなかったは、差し向けられた不可思議な言葉に、不自由ながらも思わず首を傾げてしまう。


 向けられる笑みは、どこまでもやわらかかった。やわらかくて、優しくて、あたたかくて。
 主の目覚めを己が目で確認し、不安から解き放たれたはずの心が、ようやくゆるゆると解きほぐされていく。知らず力の入っていた肩が徐々に楽になり、どこか遠くに世界を捉えるばかりだった五感が、まっとうに機能しはじめるのを感じる。
「もう大丈夫ですよ」
 そして、その一言が決定打だった。
「大丈夫ですよ。ずっとずっと、我慢していたのですね」
 あやすように微笑みかけ、右手で頭を撫でられ、左手で目尻を拭われる。みっともなくしゃくりあげる姿に眉根など寄せず、ただただ静かに包み込んでくれる。
「よく頑張りましたね」
 あなたの信じる心が、きっと、知盛様を此の岸へと繋ぎとめたのでしょう。そうしみじみと呟かれて、は力なく首を振る。


 確かに信じていた。必死になって祈っていた。けれどそれは、不安の裏返し。不安で不安で壊れそうな自分のために、精一杯に強がっただけのこと。ねぎらわれる資格などないのだと、伝えたいのに言葉はすべて嗚咽に呑まれてしまって。
「不安に思うのは、当然です。それは、あなたが知盛様を案じているからでしょう?」
 それでも言いたいことが伝わったのだろう。あやすように笑みが深まり、その優しさにますます涙が止まらなくなったを、安芸はやわりと胸に抱き込む。
「もう大丈夫ですよ。大丈夫ですから、今宵は存分にお泣きなさい。そして、明日からまた、知盛様を信じて差し上げれば良いのです」
 大丈夫、大丈夫ですからね、と。繰り返される言葉に包み込まれて、は延々と泣き続けた。こうまでも泣くことができる相手に巡り合えたことも、こうまでも泣かせてくれる相手に巡り合えたことも、何もかもすべてが幸せだった。それこそ泣けてきそうなほどに幸せだったのだが、今宵はただひたすらに。終えてみればたったの四日でしかなかった奈落のような不安を昇華するために、主の前でだけは見せられない涙を、延々と流し続けたのだった。

Fin.

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