交わること
確かに、行儀作法が付け焼刃でしかない自覚はあった。この先、一門の人間として働くにはそれだけでは足りないし、もっと磨く必要があることもわかっていた。これまでなんだかんだと理由をつけて逃げ回っていた雅事にも手をつけなくてはならないし、そのすべてを踏まえた上での決断だったと。
それでも、何事にも順序があると思うのだ。
まさにそここそが駆け込み寺といった風情で飛び込んだ将臣を迎えたのは、幸か不幸かであった。精度や範囲は知らないが、その気になれば白龍と同じように気配で周囲を探ることができるそうだが、それによって知ったわけではないのだろう。
常の様子を見ている限り、彼女がその手の人外の力を日常に組み込むことを厭うていることぐらいすぐにわかる。彼女は、あくまで“ただの”人間であることを自覚して生きている。
「知盛殿にご用ですか?」
「あー、いや。悪ぃ。誰に用とか、そういうんじゃないんだけど……」
「なれば、ひとまずお上がりください」
誰に何をしたいという目的があって訪れたわけではない。ただ、将臣にとって知盛の邸は、駆け込み、逃げ込むという行動を選びとった際、無意識に足が向く先であるというだけのこと。ああ、そういえば無意識だったなと、思い至ると同時にの顔を見てほっと息を吐き出した自分のことも思い出し、将臣は周囲を確かめる。
右よし、左よし。背後もよし。
「将臣殿?」
「今行く」
上がれと言われていきなり周囲の確認をされては、も驚いたことだろう。何をしているのかと雄弁に語る声にへらりと笑いかけ、内心で盛大に息を吐き出す。この様子を目撃できたろう面々が彼らの主にこの様子をあえて告げ口したりしない部類であることを確認してからでなくば、迂闊に上がり込むことさえできないのが、この駆け込み寺の抱える大きな矛盾である。
さすがに経験豊富な女房を抱えているだけあり、知盛の邸の居心地はとても良い。なんというか、客人へのもてなしのそつのなさが群を抜いている。
「随分と、お疲れのご様子ですね」
通された先の曹司には、既に提子と椀が揃えてあった。将臣が個人的にを訪れる際、他の女房達は呼ばれない限り部屋に迂闊に近寄ろうとしない。それはまだ一門が平穏に辿り着くことのできなかった頃の名残り。
言いだしたのは、確かだった。いつどこで誰の耳に入るかもしれない状況で、不確定の歴史を語り合うのはいかがなものかとの気遣いの結果が、これ。人払いにあたってそんな理由を口にするわけにもいかず、軍事にかかわることだからとごまかしたのだが、妙なところにまでよくよく気が回る家人達は、知盛から聞き知ったという「あの二人は、同じ国の出自ゆえ」なる事情を掘りに掘って深読みしてくれたらしい。
故郷を同じくする者同士、気兼ねなく語り合いたいこともあるだろうからと。自分達は控えているが、くれぐれもに妙な気を起こしたり手出しをしないよう散々に将臣に釘を刺したのは、安芸と家長と、それから数えるのも嫌になるほどの相手だった。
注がれるのは白湯。いつ伝えたかなど定かではないが、日の出ているうちは基本的に酒を飲まないという将臣の信条も、この邸の面々はしっかりとわかってくれている。本当に、良くも悪くも気の回るものばかりが揃っていることだ。
「さすが胡蝶さん。聞いてくれるってことだな?」
「聞くことぐらいしかできませんので」
「聞いてもらえるだけでも、ありがたいからな」
逃げ込んできた際の様子をほのかに笑ってねぎらってから、はゆったりと将臣に対峙する。
「今回はまだ、さほどあくの強すぎる方々でもなかったと推察いたしますが」
「あれ? もしかして、筒抜けか?」
「遠からず、将臣殿が愚痴を言いに逃げていらっしゃるでしょうと、頭の君様が」
「……スパルタ式だってことは、よーくよーくわかってやがるんだな」
はあ、と大袈裟に溜め息を吐き出し、けれど将臣の声には恨みの色など滲みもしない。
「まあ、実践が一番の早道だってことは、わかってるけどさ」
どちらかといえば、将臣もその方がありがたい。理屈を色々こねまわされるより、実地で叩き込んでもらえる方がわかりやすい。行儀作法だろうが、剣術だろうが、馬術だろうが。だが、しかし。
「顔見せだって聞いてた宴でいきなり歌詠めって、それはなしだと思わねぇ?」
「歌を詠まずにすむ座であると。その思い込みを確認なさらなかった時点で、負けられたのでございましょう」
それでも一応、前座というものは必要だと思う。その思いを篭めての訴えは向かう刃でばっさりと切り捨てられ、けれどせめては情けをかけようとでもいうのか。
「とりあえず、これらの意味を解釈しておけとの知盛殿からのご伝言です」
そつなく取りだされたのは趣味のいい文箱。蓋を開ける気にもならないまま、有無を言う自由などあるはずもなく、受け取らされた重量はかなりのもの。
「赤ペン先生は?」
「僭越ながら、今回はわたしが」
慰めるように笑いかけてくれたくせに、初代赤ペン先生は微塵の容赦もなく「質問の解禁は、一旦答え合わせが終わってからと周知してありますので」と、とどめの一撃を深々と突き立ててくれた。
Fin.