歌うこと
朗々と謡う人影は、夕暮れの中でひどく鮮やかに光を遮っていた。真っ赤な空を背に、黒々と刻まれる、影。
「あれは……?」
問う声が知らず密やかなものになったのは、無理からぬといったところか。取り巻く人影は、ひとつふたつなどという可愛らしいものではない。祈るように、映すように。あまたの視線が突き刺さる、そこは完成された舞台だった。しんと静まりかえった夕闇の半歩手前の空で、人影は謡い、観衆は見入る。まるで、なにがしかの儀式のように。
重衡は、その影に見覚えがあった。蒼黒の鎧。白木の鞘。異形の面。わずかに首が巡らされるたび、しゃらりと涼やかな音が聞こえそうなほど厳かに宙を滑るのは、夜闇色の長い髪。出陣の折には確か微塵のほつれもなく纏められていたそれを頭頂部に高く結いあげて、後はただ背に流して。
高く遠く、透明な声は重衡の知らない言葉を紡いでいた。知らない音律に載せて、遠く、高く。ただわかるのは、彼女が何かを送っているということ。何かに祈り、そして彼女が斬り伏せた、あるいは彼女の見知らぬ場所で散っていったすべての命に対して、追悼を献じているのだという確信。
物珍しさや、奇妙な行動をとる相手への軽蔑ではなく、その荘厳さに圧されて、観衆は彼女との距離を詰められないのだろう。天を仰ぎ、帯のあたりで両手を組み、透明な声は力に満ちて天へと昇る。
「送りたいと、言うのでな」
魅入られたように、気づけば意識を根こそぎ奪われていたのだろう。ふと背後から響いた声に、重衡は反射的に肩を強張らせて右手を浮かせる。しかし、驚愕と同時に声の主を察し、仄かな苦笑と共に視線を走らせる。
「拒む理由は、あるまい?」
「……ええ、無論」
それは、重衡がどこかに忘れてきてしまった感慨だった。無論、戦闘が果てれば負傷者の手当てをする。生きているものを生かせるように最大限に手を尽くし、もう生かせない者には、せめてそれ以上の苦しみを与えないように、最後の慈悲をそっと手向ける。そうして生死を振り分けて、家族の許に連れ帰ってやれない躯達は、その場で弔うのが慣習だ。
そう、重衡だとてもちろん弔っている。御仏に祈りを捧げ、残された家族への慰めを手配し、失われた同志を悼んでいる。だが、同時にそれは義務を務めるのであり、義理を果たすという感覚に侵されていた。
すべての死をああも真面目に嘆くには、重衡には負うものが多すぎる。抱える郎党が多すぎて、抗うべき敵が多すぎる。ゆえに重衡には叶わない。彼女のように深い追悼の意を、隠しきれぬ畏怖と共に曝け出すことなど。
視線を再び彼女に戻して、返された声音と同じように、ごくごく小さな声で囁くようにして重衡は嘯く。
「よく、兵達が許しましたね」
「アレの戦功は、明らか……なれば、勝利の陣にて好きに振る舞うのを、いったい誰に咎められると?」
喉の奥で皮肉にまみれた笑声を転がし、それからふと色が抜け落ちる。
「誰を悼もうとも、構うまいよ」
表情の一切を削ぎ落とした声は、高く遠く、静謐であり厳粛。目の前にて展開される光景と似て非なる威圧感に、知らず呼吸が詰まるのを必死になって噛み殺す。
「アレが味方を悼むなら、それは兵らの励みとなり誉となろう。アレが敵方を悼むなら、それは兵らの尊崇を煽り礎となろう」
「慈悲の刃にて敵兵を屠る、平家に降り立ちし軍女神なれば?」
「勝利と共に在る限り、な」
戦闘が果てるよりも先に重衡の耳にも飛び込んできた、それはきっと兄にとってさえ予想以上だったろうひとつの噂。
新中納言殿の陣には、軍神の加護持つ戦乙女がおられる。敵を屠る刃には慈悲さえ灯し、御大将の背を守りて戦場に舞う姫将軍。我らに勝利を齎せし戦巫女。
ひととおりの区切りがついたのだろう。唇の動きが止まり、天を仰いで宙に滲んだ声が完全に消え去るのを待つような風情をみせた影が、しばらくの沈黙を挟んで腰許へと手を伸ばす。淀みない動きで細身の刃を引き抜き、足音もささやかに切っ先を宙に滑らせる。
つと、重衡の背後に佇んでいた気配がやはりごく小さな足音だけを伴って一歩を踏み出し、兵達の合間を縫って美しく完成された矛盾だらけの舞台へと至る。
兄の率いる軍には、腕の立つ者が多い。実力も高く、気位も高い。その誰もに認められるほどの戦功を上げたということは、鮮やかに艶やかに、容赦も慈悲もなく戦場を駆け抜けたということ。その刃を血潮で濡らし、数多の命を踏みしだき、怨嗟にまみれて生き延びたということ。
だというのに、彼女は哀悼の意を纏って祈りを紡ぐ。命を奪った己への恐れと覚悟を載せて清めの舞を献じる。その矛盾を理不尽と感じさせない、ある種の強引な支配力さえ降して。
総大将を前に頭を下げることさえ忘れさせる圧倒的な存在感で、舞台の中心では二振りの刀が宙を奔っていた。きっかけは単なる気まぐれなのかもしれない。あるいは彼女の存在をより強固に確立するための策なのかもしれない。もしかしたら、兄自身が何がしかの思いに駆られて、この葬送の儀に自ら参画する気になったのかもしれない。
その真意は重衡にはわからない。わからないけれど、少なくとも兄が彼女と同等の真摯さで、追悼のために戦闘で疲れているだろう四肢で舞を献じていることは理解できた。切っ先に祈りを載せ、ひとつひとつの足運びに清めの意思を漲らせて。
視えている者、聴こえている者、察している者はさほどもあるまい。ゆえにこそこれは一種の呪縛。一種の呪術であり、一種の策なのだ。
大地が、大気が共鳴している。わだかまり、ともすれば行き先を見失って怨念として凝ったのかもしれない気配が、きらきらと世界に溶けていくのを、視るともなしに見やる。
ふたつの影は、残照が放つ最後の輝きの中、目に痛いほど黒々と世界に刻まれていた。祈るように、願うように。もはや静寂を縫って響くのは足音と剣先が宙を奔る音だけであるのに、勝ち戦にあって驕りを鎮める歌声がいつまでも耳の奥で響いているよう。その音なき声が耳にあるうちにと重衡は瞑目し、戦場にて目を覚ます己の修羅の側面を、そっとそっと魂の奥底の眠りへと送り出した。
Fin.