言葉を話すこと
敦盛は、自分が雄弁でなければ能弁でもないことを、知っている。実のない言葉を軽々しく弄すのは性に合わないし、不誠実なことだとも思う。だが同時に、自分がもっと言葉をうまく使えればいいのにとも常々思っている。
人は、心を持つ生き物だ。そして心は目に見えず、耳に聞こえない。思いを贈り物に託したり、態度に映したりすることもできる。それでも、思うところを相手に伝えるのには、言葉を用いることこそが何より有効だということを認められないほど、敦盛は子供でもなければ物わかりが悪いつもりもない。
そして、世の中の大概の事項には例外が存在するということも、知っている。
病弱な体質ゆえにと預けられていた熊野から六波羅に戻ったところで、体調が良くなる道理などない。ちょっとした気候の変化で調子を崩してはぐずぐずと寝つき、ままならない己の体に辟易する生活に変わりはない。
一門の存在が間近になったことで、見舞いにと訪れる人数と来客を迎える頻度ばかりは格段に上昇した。しかし、その中でもこの従兄が出向いてくるのは珍しかった。敦盛の記憶する限り、こうして一人で訪れてくれるのは、これが初めてではなかっただろうか。
「あ、あの」
とはいえ、従兄もまた決して能弁でなければ雄弁でもない。必要な場面では雄弁かつ能弁な側面を見せるそうではあるが、少なくとも従弟を見舞うという状況において、彼はその必要性を見出さなかったのだろう。ありきたりな見舞いの言葉を実に気のない調子でのたまって後、黙り込んでしまった無表情な相貌に、見舞われたはずの敦盛が居たたまれなくなって言葉を探す羽目になる。
「その、もしよろしければ、うかがいたいことがあるのですが」
しどろもどろの口調で何とか脳裏から引っ張り出した話題を言葉に託したところまでは良かった。良かったのだが、そのまま本題に切り込む前に、既に敦盛は泣きそうな気分だった。口に出してから思い出したのは、この従兄が噂話の類をいたく嫌うというあまりに有名な親族中での暗黙の了解。
しかし、続きを口にしないわけにはいかない。ちらと流された深紫の双眸は敦盛に言葉を継ぐことを許し、求めている。はたりと、ただ瞬きをひとつ落とすだけで、彼は上に立つものとしての絶対的な命令を無音の内に雄弁に伝える。
敦盛とて平家一門に身を置くもの。命ぜられるより、命じることの方が多い。それでも問答無用で恭順の意思が全身を駆け巡ったのは、ひとえに格の違い。ああ、宗家の正妻筋は違う。無論それだけではないだろうということもわかっていたが、つい反射的に脳裏を支配した理屈に、微塵の疑問も浮かばない。
「知盛殿のお邸に、異国の女房殿がおられるとの噂を聞きました」
意を決し、それでもどうにも分が悪くなった折には何とか逃げられるよう様子をうかがいつつ差し向けた前口上に、ひとまず知盛は短く「ああ」とだけ頷いた。
「珍しき楽をご存じだと、うかがっています」
「……まあ、珍しいか」
ゆるゆるともう一歩詰めてみれば、今度は先よりもほんの少し長い言葉による返答。特に気を悪くした様子は見られないが、食いついてくる様子もない。なればこれは当たり障りのない話題なのだろうと、どこか安堵したような落胆したような複雑な気持ちで敦盛はさらに言葉を繋げる。
「機会があれば、私も聞かせていただきたいと」
宮中においては院からも篤く目をかけられる切れ者の公達。一門においては誉れ高き清盛が息子にして、勇名高き武人。文武に秀で、見目も麗しく、血筋も高貴。ありとあらゆる噂に事欠かない従兄に比べれば霞んでしまうが、敦盛は自分が楽を好むという噂が一門の中でそれなり以上に浸透していることを自覚している。
才ゆえに、立場ゆえにという理由も大いにあろうが、同時に誰もが暗黙の了解としつつある噂ゆえに知盛が垣間見せる時に血なまぐさく、薄情とも思える側面が許容されているという事実を知っている。同じように、楽に傾倒する自分や経正が、楽にまつわる話題であれば、多少の行き過ぎを目こぼししてもらえるということも。
ゆえに、これは賭けであると同時に命綱でもあった。どのような話題が通じるのか、好まれるのか、許されるのかまったくわからない相手に対して、最も無難に万一の場合の保身が図れる唯一の道。楽に関することでなら、敦盛も多少は雄弁になれる。
なんとか紡いだ言葉に何を思ったのか、はたはたと睫毛を上下させ、敦盛がそろそろいたたまれなさに耐え切れなくなる寸前になってから、知盛はようやく口を開いた。
「惹かれあう、か」
ゆるりとした口調は従兄を特徴づける一端。どこかけだるげで何かに厭いたような口調は、けれど今日ばかりは何かを愛しむ音調であるように。
「あれも、お前も……音律に思いを載せる」
閃いたのは苦笑。仄かで、優しい、あたたかな。
それだけを紡いで一旦口を噤んだ知盛の言葉を、敦盛はただ黙って待っていた。楽を愛でる者同士、似ていると言われたのだろう。それはすぐに読みとれる言葉遊びだ。歌に、舞に思いを託す者がいるように、敦盛は笛の音に己の思いを託す。その手法が同じだと言われることには慣れている。
だが、知盛の声音は言葉に篭められた意味がそれだけではないと雄弁に物語っていた。
見守るように、揶揄するように。それから、羨むように。
紡がれた声に滲む切なさを聞きとってしまったのは、それこそ敦盛が音をことさらに愛しているからなのだろうか。言葉の裏側に潜まされている何かが視界を掠め、けれど輪郭を捉えることができない。能弁でもなければ雄弁でもない敦盛には、そしてその内実をそれとなく聞き出すだけの言葉が思いつくはずもなくて。
わけもわからず、いつの間にやら表情が歪んでいたらしい。わずかに眉尻を下げ、慈しむようにそっと目を細めて「そう、難しい貌をしてくれるな」と平淡な声で呟く知盛は、言葉以上の包容力で敦盛を包み込む。
「床を、あげられたなら」
気心の知れたものだけで、宴席を持つのも良い。お前と、経正殿と、重衡と。小松第にも、声をかけるか。
ほとほとと、なんでもないように未来を約束する言葉はあまりにもありふれていて、社交辞令と言われればそれまでのもの。それでも、敦盛はそのなんでもない言葉に、痛いほどの願いを読みとった。
だから、生き延びてみせろと。楽にさえ頼らず、その声音と存在だけで無音の中にもまざまざと心を伝えてられる稀有なる在り方は素直に羨ましかった。憧れて、尊敬して、敬愛して。
そんな思いもまたやがて訪れる未来を構成する一端だったのだと、察しはすれど言葉にできない時になって改めて、言葉に心を託すことの重みに恐怖した。そして敦盛は従兄が生来の性分として寡黙なのではなく、もしや言葉を殺さざるを得ない日々に呑まれてしまったのだろうかという可能性をもまた、思い知ったのだ。
Fin.