朔夜のうさぎは夢を見る

悲しむこと

「で? こんな時間にわざわざ呼び立てて、いったい何の用だい?」
 還内府殿。一息おいてから、そう最後にわざとらしく続けられた言葉は、揶揄に揺れているようであり、猜疑に研ぎ澄まされているようだった。無理からぬ警戒だ。そして、いかんともしがたい痛烈な皮肉。そうして声音を揺らされることに、将臣は反駁するだけの権利がないことをきちんと理解している。
「ちと、頼みたいことがあってな」
 熊野別当に。だから、あえて差し向けられたのと同じ調子で言葉を紡いでやった。一息おいてから呼びかけるのは、ヒノエの纏う名のひとつ。無論、熊野別当たるヒノエにこそ頼みがあったのは事実だ。紛れもなく、嫌味もなく。けれどこの場において、この呼びかけはどうしても皮肉な響きを孕んでしまう。
 互いに立場を隠していた。それはいかんともしがたい警戒であり、無理からぬ皮肉な現実。すべてが視えている者には、きっと滑稽にしか映らなかったろう必死の悪足掻き。それでも、それこそ必死なのだ。誰に何を言われようと、覆すつもりはなかった。還内府は平家を守るために。熊野別当は熊野を守るために。


 宴席が果て、それぞれに用立てられた部屋へと引き上げたのはつい先刻のこと。途中退席していた知盛のことは気になっていたが、今宵の内に訪ねていくほど、将臣は無神経にもなれなければ知盛の胸の内がわかる自信もなかった。きっと、そうっとしておくのが一番だろう。それは言い訳でもあったし、怜悧な判断でもあった。
 彼は強い。傷を癒すことがあたわずとも、覆い隠すことぐらいはやってのけるはずだ。そして先に進む。どれほどの傷を負っていても、誰よりも力強く、迷いなく、正しく進み続ける。
 信頼と確信と、それから願いと祈りと。すべてをないまぜにして、だから将臣は知盛に時間が必要ならその間を待とうと思うし、その時間をもって自分ができることをなそうと思う。たとえ、自己満足に過ぎないとしても。
 呼びかけに対して苦く表情が歪んだのは、ヒノエの優しさであり良心だ。必要があるから隠していたのであって、別に欺く意図があったわけではない。わずかな表情の変化からそう内心を読みとったのは、将臣も同じような後ろめたさを抱えているから。騙したかったわけではない。疑っていたというのも少し違う。ただ、大切なのだ。守ろうと決めた、守りたいと願う、あるいは己の存在意義の一部とも呼べる存在が。


「ンな貌すんなよ。別に、複雑なことじゃねぇし」
「複雑かどうかは、聞いてから決めるよ」
「ま、それもそうか」
 へらりと苦笑を浮かべて硬直した空気をかき混ぜてから、将臣は部屋に引き揚げた際、移動させられていた荷物の中から引っ張り出してきた布包みをずいと宙につきだした。
「弔ってほしいんだ」
「……弔う?」
「そう。熊野別当って、神職なんだろ? だったら、そういうのもできるんじゃねぇかと思ってさ」
 紡がれた依頼は確かにあまりにも単純明快で、裏など何も見えはしない。いまだ疑う気持ちが拭いきれないものの、けれど確かに神職としては偽りである確信がない以上は無碍にするわけにもいかず。少なくとも、将臣がこの場で自分を傷つける理由もなければ利益もないことを根拠に、ヒノエはようやく距離を詰めて将臣がつきだしていた布包みの中身を確かめる。
「これは?」
「敦盛からもらった。……三草山で、胡蝶さんが集めていたらしいんだ」
 返された説明に、ヒノエは低く「ああ」とだけ呻いていた。ならばきっと、それは彼女が出会った死の証だろう。実際に目の当たりにしたことはないが、平家が擁す月天将は、源平両家に勇名を轟かせる反面、戦場で鎮魂の祈りを捧げるという噂をヒノエは知っていた。


 三草山で、彼女は部隊からはぐれた敦盛を探して単騎で動いていたと聞いている。敦盛と共に在ったのは、怨霊兵の部隊。なるほど、人も怨霊も分け隔てなくその死を悼むのは、なにも龍神の神子だけであるはずがない。将臣達平家の面々にとって、在り方は違えど怨霊兵もまた大切な味方であることだろう。仲間であり、同士なのだろう。
 なれば悼みたいと願うのは当然か。その“死”を認めるために、儀式を必要とするのは道理か。生死の境をこそ歪めた一門は、けれどどこまでも人間らしいということ。それこそ痛烈な皮肉に、ヒノエは表情を取り繕うことも忘れて静かに瞑目する。
「祝詞を上げるぐらいしか、やってやれないよ」
 正確に言えば、もう彼らは弔われているはずなのだ。人としての命が潰えた時に。それから、怨霊としての存在を封じられた時に。彼らの最期を確かめたわけではないが、怨霊は調伏によって滅されるか、龍神の神子の封印によって五行に還されない限り、人の命からすれば信じがたいほどの時間を過ごさなければ自然消滅することなどできない。三草山の戦に、源氏軍は陰陽師を伴っていなかった。彼らが既に滅しているというのなら、では、彼らは源氏の神子によって封印されたということだ。
 ここにあるのは彼らの死を思い返すための楔であり、彼らの魂は既に五行へと還っているはず。だから、ここでいくらヒノエが祝詞を上げようとも、それは形式でしかなく、形骸にすぎない。それこそ神職としての己を偽ることは矜持が許さないため正直にそう伝えたというのに、将臣は「いいんだ」と首を振る。


「こっちでも、一応その手の儀礼はすませてるんだけどさ。俺が、ずっと未練がましく思ってて……でも、これで確かめられたから、踏ん切りをつけたいんだ」
 そのためだけに、たとえ形骸でもかまわないから、あえかな希望を真っ向から切り捨てた死の証をもって、弔いの儀を求めるのだと。
「そういうの、ちゃんとしとかねぇと、間違いかねないからな」
 そして続けられたのは、自嘲と後悔に染まった戒めの言葉だった。
 それは恐らく、将臣の言うところの“間違い”を目の当たりにし、それを日常として過ごしたからこその重み。きっときっかけはありふれたものだった。だって、誰だって失いたくない。大切な人は失いたくない。喪われれば悲しい。叶うならば取り返したいと願い、その願いが強すぎて、踏み外してはいけない一歩を踏み外してしまった。
「わがままだけどさ。神職であるお前なら、甘やかしてくれっかなぁって」
 へらりと浮かべられた笑みは歪で、切なくて、滲む内心を取り繕うことなどまるでできていなかった。それでも、見て見ぬふりをしてやるほどには、ヒノエは為政者としても神職としても、実年齢以上の経験を積んでいるという自負がある。
 大きく息を吸い、大げさなほどに溜め息をひとつ。まったくもって仕方ないと雄弁に訴える表情は完璧なまでに美しく。
「ここじゃ目立つから、奥に来なよ」
 さりげなさを装って将臣を追い抜かし、向かうのは本宮の奥。もっと早く彼ら一門がこうして己を戒められれば良かったのに。そうすれば、いつか自分がその在り方を暴かなければいけないかもしれない彼が、戒めの鎖を身に纏う現在など存在しなかったかもしれないのに。
 その願いはけれど口にしてはいけないとわかっていたから、代わりに握りしめた両手のこぶしが、夜闇に紛れて見えていなければいいと、願った。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。