喜ぶこと
源氏は源九郎義経の部隊には、弓の名手と名高い男が一人いる。敵陣にもなおその名を馳せるのは、那須与一。平家に与する彼の実兄らが口を揃えて認めるのだから、噂は確かな事実であろう。そして対成すように、平家一門にもまた弓の名手がいる。
男の名は、平教盛が子、平教経。能登守を拝命し、王城一の弓使いの二つ名を冠するほどの使い手である。
さて、平家一門において、教経は新中納言と並ぶ武将と目されることが多い。教経としては、年上の従兄でもあり、血筋からも地位からも決して対等であることなど許されない相手と名を並べられることは、嬉しく誇らしくもあるのだが、恐れ多くて仕方ない。
知盛が嫌いなのではなく、彼の実力を知り、名声に見合う内実を知り、彼という存在を純粋に尊敬していればこそ。だから、目の前でふと首を巡らせた娘にどう接すればいいのかを、実のところ今なおずっと悩んでいたのだ。尊敬してやまない従兄殿からふらりと預けられた、一見どこにでもいそうな、それでいて二人といないことを強く確信できる、この珍妙極まりない女房殿を。
口の中でいくつか言葉を転がし、やがて諦めて教経は公達としての己の側面を無視することにした。挙措と気配りは忘れずに、言葉遣いは武将としての己を許容して、ようやく言葉を声に載せる。
「どうかしたのか?」
悩みに悩んで絞り出したのは、簡潔な問いかけ。確かに声音はやわらかかったが、その分言葉との落差が激しくなりすぎて逆効果だった。しまった、と思いはするが、一度宙に放たれた音はもう取り返せない。きょとと瞬きながら振り返ってきた蒼黒の瞳を直視することだけはかろうじて避け、教経は視線を床にさまよわせながらもごもごと言い訳を探す。
「あ、いや。その、やたらと空を気にしているようだったからな」
御簾越しにやんごとない女房らと語り合うことだって少なくなかったのだ。甘やかな言葉を弄すことも不得手ではないし、自邸で自身に仕える女房らに指示を出すこともある。一門には女性の親族もいるし、ことさら女が苦手という意識はなかったのだが、これではまるで、女あしらいをまるで知らない子供ではないか。
ひそかに自己嫌悪に翻弄されて、知らずうんうん唸っていた教経の耳に、ほんのわずかな間を置いてから届いたのは吐息に絡められた笑声。くすくすと可愛らしく喉を鳴らす音に、ついつられて視線を巡らせてしまう。
「失礼をいたしました」
巡らせた先には、仄かに笑みを湛えた双眸が待ち構えていた。せっかく直視しないようにと気を配っていたのに、これではすべてが台無しである。しまったとか、大丈夫だろうかとか。少しばかり方向性を異にする心配を脳裏でいくつか並べたてて、教経はしかし、もはや今さらと目を逸らすことはやめておいた。
「雨が降り出しそうだと思いまして」
おっとりと続けられたのは、おそらく最初の問いかけに対する返答。そのことに思い至るまでに少なからず時間を要してしまったが、思い出せないほど耄碌したつもりもない。
「知盛殿が、お心配か?」
「ええ。このところ、暑い、蒸すと、調子があまり優れぬご様子でしたので」
素直に問いを差し向ければ、これまた素直な返答が困り切った吐息に載せられて。こうして物憂げに視線を伏せる姿は、ごくごく普通の女房のものだと思うのだが。
場所は、六波羅の端に設けられた弓道場。一門の中枢たる面々が住まう邸からさほど離れ過ぎてもいないそこは、流鏑馬も行えるようにと整えられた鍛錬場だ。元は空き地を利用しているだけにすぎなかったのだが、今では教経のような、武芸を好む者のたまり場にもなっている。
貴族としての側面をこそ重んじる面々からは苦い顔をされたものだが、あえて赴かなければ目につかない場所であるからと目こぼしをされていた質素な小屋を、きちんとした道場へと修繕させたのは、今は亡き重盛公であった。彼の異母弟である知盛が武芸を好む性質だから、というのもあったのかもしれない。当人もまた、時間さえあれば鍛錬に勤しむ性質だったからなのかもしれない。
とにかく、みすぼらしいことこの上なかったかつての姿は今はなく、質実剛健という言葉こそがふさわしい板敷きの間に、座しているのは教経と、狩衣姿も凛々しい一人の娘。教経自身はそろそろ見慣れた光景も、きっと重盛公は予想だにしていなかったろうと思うと少しだけおかしい。
「では、今日はもう仕舞いにして、邸に戻られるか?」
他愛のない思考につられたのか、先よりもよほどやわらかくなったことが自覚できる声音で水を向ければ、再び空を見上げていた視線が、困惑気味に振り返る。
「ですが、本日の分の鍛錬は、まだ」
「そのように気がそぞろでは、時間の無駄にしかならない」
言いさした言葉をきっぱりと否定すれば、実に申し訳なさそうに首が竦められる。別に、叱りたかったわけでもなければ威圧したつもりもなかった教経は、その様に慌てて言葉を継ぎ足す。
「当初の予定より、随分と進みが早い。時には休むこともまた肝要。それに俺も、知盛殿を優先してほしいと思う」
男女の別だとか、彼女が誰に連れられてきたとか、そういった諸々の要素を省いてしまえば、言葉はなめらかに、声音もごく普通に紡ぎ出せる。一門の年少の面々に対峙する時と同じ調子になってしまったことが少しばかり気がかりだったが、彼女に気にした様子は見られない。
「……そう、ですね」
しばしの逡巡。そして諦めよりはよほどやわらかい、瞬き。ふんわりと持ち上げられた口の端に、やはり年少の面々を相手取る時とは違うと自覚させられて内心が混乱に叩き落されるのだが、そんなことなど露知らないのだろう娘が、さらにとんでもない追い打ちをかける。
「どうやら、業を煮やされるのは、知盛殿の方が早かったご様子ですし」
「何の話だ?」
笑い含みの呟きには、道場の入り口からの切り返し。下座に座す娘と向き合う形で腰を落としていた教経が慌てて視線を持ち上げれば、音もなく気配もなく、気楽な狩衣姿の彼女の主が立っている。
いつの間に、という疑問はこれでも武の者として名を馳せる矜持ゆえに当然。しかし今はそれ以上に敬愛する従兄への礼節を忘れてはならないと、慌てて、けれど見苦しくならないよう気を配って頭を下げれば「そう、かしこまらないでいただけまいか」と声が笑う。
「引き取りに来た」
続けて端的に告げられたのは、先ほどの教経の提案そのもの。折りの良さについ相手を凝視してしまったのだろう。視線を受けて、知盛は悠然と笑う。
「雨に降られては、移動が面倒になるゆえな。わざわざ時間を割いてはいただいたが、今日は、ここまでにしていただこうかと」
耳朶を打った言葉の委細は違うが、雨の気配に相手を気遣うという趣旨は同じ。まったくもって敵わないと、ただその思いが胸の底から湧きあがり、教経はうっかり苦笑をこぼしてしまう。
「ちょうど、今日はここまでにしようかと話していたところです」
「なるほど」
ゆえに先の言葉かとひとりごちてから、入り口へと向きなおり、黙って控えていた娘へと深紫の視線が流れる。
「片付けは?」
「すぐに」
「では、待たせていただこう」
言って板敷きにゆるりと腰を下ろす背中に丁寧に頭を下げてから、娘は教経にもまた「ありがとうございました」と一礼し、先までの逡巡など微塵も垣間見せずにてきぱきと片付けに着手する。常より日頃の女房勤めの優秀さがそこかしこに垣間見える娘だが、今はその機敏さをすっかり覆い隠してしまえそうな隠しきれないどこかふわふわした空気を纏って、どこか急いた様子で動き回る。
沈着冷静でどこか風変わりな女房殿かと思いきや、なんとも可愛らしい側面を持っていたものだ。落ち着きのない様子は、あえて振り返らずとも知れるのだろう。楽しげに、のんびりと寛いでいる広い背中をちらと見やって、教経は湿った風のにおいに、くすぐったい思いで眦をゆるめるのだった。
Fin.