創造すること
それは、遠い日の思い出だった。遠い遠い、残照に濡れた淡い朱色の記憶。その時に彼と何を言い交わしたのか、そもそも何をきっかけに対面したのか、その委細は憶えいていない。けれど、はきと覚えていることがある。
――いずれ、誇れるようにありたいものだ。
そう言って、彼は静かにどこか遠くを見やっていた。残照に濡れた横顔を、ちらと見流したことを覚えている。夕焼けに染んだ銀糸は西の霊地にある知人を思わせ、けれど彼よりもよほど儚い風情。朱色と混じった紫水晶の瞳は、宵の口の空の色。
今をときめく平家の公達に対して思うことではない。そう理解しながらも、終焉を体現しているようだと。直感したのは決して間違いではなかった。ただ、彼はその直感さえ凌駕した。
胎動を孕んで終焉を踏み越え、掴み取ったのは一門の新生。そしてありとあらゆる勢力を巻き込んで、新時代の息吹を大切に大切に育て上げている。
背筋が凍るとは、きっと彼に対して捧げる感慨を示す表現に違いない。再びの対峙の時、泰衡は素直にそう思った。素直に感服して、素直に尊敬した。だから、伝えたのだ。彼が覚えていないとしても、それは紛れなく称讃の言葉になると知っていたから。
「あなたを謗るものなど、いないだろうな」
「……何の話、だ?」
「わからないなら、それでかまわない」
案の定、彼は怪訝そうに眉を顰め、ゆるりとした動作で首を巡らせてきた。その反応があまりにも予想通りでかえっておかしくなってしまい、思わず喉を鳴らせば不機嫌そうに眉間の皺が深くなる。もっとも、こうもわかりやすく内心を見せてもらえるのは、実に珍しいことだとも知っている。
「そう、臍を曲げてくださるな。決して、何かを揶揄してのことではない」
ただ、懐かしくなってな。そう素直に言葉を継ぎ足せば、はたりと瞬いた双眸があどけない疑問の光を灯す。
「かつて、平泉でお会いしたことがある。覚えておられるか?」
「忘れるべくもない」
いつもいつも、彼の邸を訪れれば実に美味い酒が供される。当人の酒好きを反映してのしつらえなのだろうが、趣味の良さ、目の高さをただ称讃するだけで終わっては平泉総領の名が廃る。
お前は俺ではないのだから、好みが異なるのは当然。何の気負いもなくそう言ってのける彼は、自邸に美酒を揃えるのに反して悪食も別に厭わないらしい。酒を出せばその価値は問わずに黙々と干す。肴もしかり、茶湯もしかり。かといって気合を入れたもてなしさえ淡々と受け流すような愚鈍さは持ち合わせておらず、美味い酒には相好を崩し、珍しい肴には興味を示す。
ゆえ、気づけば珍しい酒、美味い肴が手に入った折には迷いなく彼との席に回すようになっていた。それは意地であり、けれど意地だけではない。政務の話ばかりでは息が詰まるし、貴族の目のないところでひそやかに言葉を交わすべき相手でもある。内容の軽重が極端な酒宴の席を、周囲に「いつものこと」と思わせるための偽装を重ねることもひとつの目的。純粋に彼と杯を交わすことを楽しんでいるのも事実であり、この絆を長く保ちたいと願っているのも、事実である。
今宵の酒は、泰衡が彼の依頼を受けて平泉に文を送った際、同時に手配しておいたとっておきの品だった。西国の所領から届けられる酒で彼に敵うとは思わない。だが、北国の酒であれば泰衡にこそ一日の長がある。
厳しい寒さの中でじっくりと仕込まれた酒は、温暖な気候で作られるそれとはまったく違う趣がある。一口舐めた途端に「参ったな」と言わしめた。その一言は泰衡の想像以上の評価であったが、だから思い出したのかもしれない。自分がまだ、彼とこうして杯を交わしていても、同じように楽しむことはできなかったかつての出会いのことを。
「御館にお会いしたのは、そういえば、あれが最後だったか」
ゆるりと空を仰ぎ、懐かしむというには淡々と、無感動というには重々しく、彼は静かに過去を辿る。
「御身はまだ、元服を迎えたばかりだった」
「あなたに会って、言葉を交わせと父上に言われた。その折には、いったい何のことかと思ったものだが」
客人があるゆえ、時間を空けておけ。そう命じられたことは憶えている。誼を結べとは言われなかった。ただ、言葉を交わしておけとだけ。そこにどんな思惑があったのか、今となってはわかるようでわからないし、問いただすには自尊心が大きくなりすぎた。けれど、振り返ってみればなんとなく見えてくる。
追いかけたもの、目指したもの、心に決めたこと、己のなすべきこと。手本も指標も様々にあった。その中に、間違いなく彼と言葉を交わしたあの残照が滲んでいた。
「あなたは言った。いかな道を往こうとも、誇れるようにありたいと。その思いを、こうも見事に体現している方を、俺は知らない」
父のことは尊敬している。後見人となってくれている人のことも、その息子のことも素晴らしいと認めている。だが、違う。彼は何かが決定的に違うのだ。
「あなたと共にこうして新しい時代を築けることを、俺は、とても誇らしく思う」
そうだ、彼はただその在り方を讃えるべきと見やるだけではない。彼と共に往けることを誇らしく思う、そういう存在なのだ。
ゆえにこそ何かが違う。何もかもが違う。たとえば自分が誰かから由なく謗られたとすれば、それは相手と価値観が違うだけだと捨ておくことができる。だが、誰かが由なく彼を謗ったと知れば、それは相手にどれほど見る目がないのかと憐れにさえ思うだろう。そして彼と共に歩める自分を、より誇らしく思うだろう。
「買いかぶりすぎだ」
「では、あなたは今の道行きを、誇りと思ってはおられないのか?」
溜め息交じりに吐き出された声があまりにも頼りなく、いっそ自嘲にさえ濡れているのを聞きとって、泰衡は思わず問い返す。そして、やはり彼こそは誰にも謗られるべきではないと、思い直す。
「誇れるか否かは、すべてが終わって判ずるもの。……途上にあって、何を誇ると?」
誇れるように在りたいとは、思うが。そう呟き、にやりと笑って巡らされた視線は、夜闇にあって明けの空を連想させる、朱と青とが混じり合った深紫。
「いずれ、互いの健闘を称える折には、とっておきの酒を持ちよろうか」
この夜の遣り取りを、きっと自分は詳細に覚えているのだろう。そう静かに直感しながら、泰衡もまた負けじと「楽しみだ」と嘯いて口の端を吊り上げたのだった。
Fin.