遊ぶこと
「おーい、知盛。顔が変態じみてるぞ」
「……還内府殿」
隣を歩く青年のあけすけかつ絶妙な表現に眩暈を覚えて、経正は口の中で用意していた挨拶の言葉をうっかり呑みこんでしまっていた。こめかみに指を当て、苦笑すればいいのか嗜めればいいのか、どちらともつかない表情を曖昧に浮かべてしまう。
「だって、経正もそう思うだろ?」
ところが、曖昧な表現では将臣には経正の言わんとしていることが通じなかったらしい。もしくは、通じていたとしても却下することにしたのか。あっけらかんと同意を求められて、返せる反応はただただ沈黙。
「いったい、“弟”のことを何だとお思いで?」
あにうえ、と。わざとらしく顔を向けながら唇を動かすくせに、音は伴わせない。それでも知盛が何を言わんとしたのかはあまりにあからさまで、カチンときた様子で将臣は「おい」と噛みつく。
「お前、言いたいことがあるなら言えばいいだろ」
「おや。問うたではございませんか。この身を何だとお思いか、と」
くっくと喉を鳴らして笑う知盛の表情は余裕しゃくしゃく。義兄だ義弟だと言っていても、なんだかんだで実際に積んでいる人生の年数は覆しようがない。まして知盛は、魔窟でもある宮中をそつなく乗り切り、曲者揃いの平家一門の嫡流として渡り歩いている実力者。そのあたりの事実も認めている節があるのに、懲りた様子がないのは将臣に学習能力がないからではないのだと、経正は知っている。
「で? こんなところで、なんで一人でにやにやしてんだよ。すっげー残念だぞ、今のお前」
色々と言いたいことのある物言いではあったが、同時に実に端的に的を射た物言いでもあった。ぐっと色々なものを飲み込んだ経正の様子に、そして将臣は気づいた様子もなく、知盛はおかしげに視線を流す。
こんなところで、と。確かにそれはその通り。長門は解任された知盛をいまだ国主と慕う領民に支えられた国だったが、多くの邸を持てるほど今の平家にゆとりはない。したがって、ひとつの邸の区画を分けて複数人が住まっているのが現状だが、中でも今知盛が居座っているのは、帝やら清盛やらのためにと用立てられた一角なのだ。
「呼び出し喰らって説教受けて、廊下に立ってなさい、って感じでもねぇし」
「お前にとって、廊に座すことは、罰則なのか?」
「まぁな。実際にどうかは置いといて、お約束ってヤツだ」
ほぉ、と。将臣との会話の中で聞きとめた珍しい単語の内容を問いただし、知的好奇心を満たすのは知盛の日常の一端である。しかし、この場合は別の思惑もあったのだろう。にやりと歪められた笑みは、極悪。
「では、これまでは礼を失していたということだな」
至極申し訳なさそうな声音でゆるりと首を振るくせに、柱にもたれかかったままの姿勢はふてぶてしい。愉しそうな瞳の色にようやく警戒姿勢に入った将臣に、知盛は慇懃無礼に言い募る。
「今後は、改まった席以外では、お誘いするのは諦めることとしよう、か」
罰則を思い起こさせる場にて、酒なぞ飲んでもまずかろう。にたにた笑いながらそう続けられて、将臣はようやく自分の発言を逆手に取られたことに思い至ったらしい。ひくひくと口の端を引き攣らせ、剣呑に据わった双眸で「お前なぁ」と呻く声が低い。
「なんだよ、八つ当たりか? 尼御前に叱られたんなら、しょうがねぇから一緒に謝りに行ってやってもいいぜ?」
この期に及んでなぜこうして混ぜ返す気になるのかが経正には理解できないのだが、ほんのわずかな黙考を挟み、将臣は人の悪い笑みを浮かべて反撃に出ることにしたらしい。
「あいにくと、俺は昔からできた子でな……母上に叱られたことなぞ、記憶にない」
ぐっと言葉に詰まった将臣がいかにも不審そうな表情で振り返ってきたが、その言葉に偽りがないことを経正は知っている。性格が捻くれて歪んでいるのもそれなりに昔からだったが、確かに知盛は非常にできた子だったのだ。
「あー、もう! だったら何なんだよ!? なんでこんなとこ座り込んで、にやにやしてんだ?」
それこそ八つ当たりでしかないだろう勢いで吠えた将臣に、経正は苦笑を、知盛は勝ち誇った笑みをそれぞれに向ける。
「はじめから、素直にそう言えばいいものを」
「へぇ。にやにやしてるって自覚はあるわけだ?」
答えを乞うている立場としてはあるまじき強気な発言だが、それが許されてしまうのが将臣の人柄であり、知盛との関係性である。常ならば臍を曲げられかねないが、今日の知盛には許容するだけのゆとりがあることを経正も察している。どうやら、本格的に機嫌がいいらしい。
「人待ちの最中でな」
何やら意味深げに笑うその真意を将臣が問い正すよりも早く、知盛が背を向けていた柱の奥から真相が顔をのぞかせる。
「知盛殿、待たせたのだ」
柱の脇の御簾を押しやってひょっこり顔を出したのはいと尊き少年。すかさず腰を折る経正とは対照的に、将臣はのんきに「お、帝か」と片手を上げる。
気軽な挨拶に明るく応じてから、なぜか困ったように少年は知盛へと視線を巡らせる。
「知盛殿が呼んだのか?」
「いえ……たまたま、通りがかっただけのようでございますよ」
いつの間にやら音もなく腰を上げていた知盛が実に自然な所作で御簾を絡げ、言仁の背をそっと押してやる。
「もう戻られるそうですので、お気になさいますな」
言って巡らされた視線が無言で訴えるのは、同意の強制。状況を読みとれないらしく少しばかり混乱している将臣に代わり、少なくとも要請された内容をすぐさま諒解した経正が「ええ、申し訳ないのですが、これにて失礼させていただきたく」とすかさず応じる。
「そうか。ではな、将臣殿、経正殿!」
「あ? ああ、またな?」
「はい。御前を失礼いたします」
そのまま背にあてられていた知盛の手を両手で掴み、ぐいぐいと御簾の向こうに引っ張っていく幼い声が、実に楽しげに笑っている。
「……何だったんだ?」
「詳細は、後より知盛殿にうかがえばよろしいのではないでしょうか?」
取り残されて呆然とする将臣を慰め、経正は仄かに笑った。もっとも、詳細を問いただしに行く頃には、きっと将臣は気づいているだろう。呆然自失の境地から戻れば、御簾の向こうから響く無邪気な笑声の意味を知ることも難しいことではない。
「知盛殿が、優しい方だということですよ」
「………ま、知ってるけどな」
淡く、優しく笑いあい、二人はようやく止まっていた足を動かしはじめる。そうして進む間中ずっと口元の緩んでいる将臣の表情が、くしくも当人が「にやにやしている」と称した先の知盛と同じ類のものであることは、隣を歩く経正にしかわからないことだった。
Fin.