朔夜のうさぎは夢を見る

食べること

 為政者である以上、ヒノエは己が周囲から敬われ、丁重に扱われる存在であることを自覚している。その裏には責任があるし、課される重責にも期待にも応えているという自負がある。だが、だからといって周囲を見下していいわけではない。
 尊ぶべき存在は様々に。民がいなければ国は成り立たない。ヒノエが熊野の頭領たるのは、熊野の民があってこそ。だが、それとは少し違った観点で、取り分けて敬意を払ったり特例扱いする存在もある。
 たとえばそれは薬師であり医師。ヒノエは個人的に、その中でも赤子を取り上げることに長けている面々をひどく重用している。船の扱いに長けた水夫は、老いて船から降りたとしてもこまめにその知識と経験を拝借しにいく対象だし、宮大工達がいなくては霊地たる熊野の面目は早々に地に落ちていただろう。
 それから、厨房を預かる人間も重要だ。何せ彼らは、日々の命を支えてくれるのだから。


 そんなわけで、ヒノエは譲のことを実はとても尊敬している。異なる世界から来たという言葉に偽りはないだろう。よくわからない常識に、交易の地である熊野の生まれ育ちであるヒノエでさえ見たことのない玻璃の装飾品。将臣が弄すよくわからない言葉をあっさりと理解しているし、何より、見たことも聞いたこともない食べ物を作れることが不動の証拠だ。
 蛇の道は蛇。海戦のことで源氏の面々に何を言われてもヒノエは鼻で笑うだけだから、料理や食物の効能については譲の言い分を頭から信じている。そういうものだと思っている。
 だから、譲が言った「甘い物は、心を和ませるから」という言葉を思い出すことのできた自分に満足したし、その言葉を実践できるだけの力を持っていることに、素直に利便性を覚えたものだ。


 気丈な様子であっという間に常と同じ姿を纏った娘の姿が、ヒノエにはどこまでも痛ましく映った。そんなに強がらなくてもいいのにと、思うのはヒノエにとって彼女が捕虜でもなく平家の将でもなく、ひとりの女になったからだ。
 道は決した。各勢力の重鎮が示し合わせたのだ。ここまで来て、話が覆されることはそうそうないだろう。少なくとも、もはや彼女は何の力も持ちはしない。その現実を見据える瞳が、彼女の纏うありとあらゆるしがらみを映すことに意味を見出さなくなったのだ。
 いたしかたないことと、そう思う。憐れなものと、そう思う。そしてこれこそが戦乱にかかわるものの末路だと、ただ胸の底に沈むはずだった平淡な感慨が、しかし彼女に向く場合に限って少なからぬ起伏を持つ。それは、何もかもをどこか突き放したように見据えているのかと思えた彼女に、確かな憧憬と敬愛をもって見つめられた己がゆえに。


 わっと上がった歓声は華やかで、やはりいいものだと口の端を吊り上げる。既にその味を知っている望美と朔、白龍が嬉々として器を受け取り、不思議そうに小首を傾げて同じく受け取った娘にいかに譲の料理の腕前が優れているかを改めてこんこんと語っている。
 蜂の蜜に、牛の乳に。なんとも贅を凝らしたこの冷菓がいかに美味であるかはもちろんヒノエも知っている。知っており、さらにはそうそうありつけるような代物ではないことも知っている。そして、そんな希少な代物の材料を揃えられる己のことも。
「……おいしい」
「でしょ!?」
「本当に、舌の上でとろけるようよね」
 男女の別も年齢の差も関係なく、誰もが相好を崩す和やかな空気の中、思わずといった様子でこぼれた声に、すかさず黒白の龍の神子が相槌を送る。


 あの夜からこちら、どことなく張り詰めた様子の拭いきれなかった娘の横顔が、目を疑うほどのあどけなさに塗りこめられているのが、どこか切ない。その表情を見るべきはきっと、自分達ではないのだろうに。
「おいしいものを食べると、幸せになるよね」
 それこそとろけんばかりの笑顔で幸せそうに同意を求めた望美に、娘は穏やかに目を細めてどこかおどけた声を紡ぐ。
「生きていてよかったと、そう思う瞬間のひとつです」
 声に偽りはなく、払った代償が想定以上の効果を齎したと確信できる。ああ、けれどそれは決して戯れではなく、どこまでも切実なお前の真情なんだろう。そのまま束の間の幸福に誰もが舌鼓を打つ中、そつなく巡らされた蒼黒の視線が確かに礼を紡ぐのを受け止める。
 そしてヒノエは、甘露そのものである命の糧が、少なくとも彼女の心を確かに和ませただろう現実に、縋る思いを懸けていた。

Fin.

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