朔夜のうさぎは夢を見る

考えること

「あら、胡蝶さん。どうなさいましたの?」
「まあ、そのような意地悪をおっしゃることもないでしょう」
「ええ、そうですわね。胡蝶さんがかくも困っていらっしゃるということは、知盛様のことでございましょう?」
「本日は、いったいいかな難題を?」
 さやさやと笑声がさんざめきながら折り重なっていく。まだ、邸の女房達が集まっている局を探し当てて御簾を絡げただけだというのに、挨拶の口上を述べるよりも先に、なぜか用件の方向性まで検討をつけられてしまう。
 まあお座りなさいな、と。車座になっていた一角を空けてもらい、は素直に礼を述べてから足を進めた。


「先日は何だったかしら?」
「ほら、香の炊き具合ですわ」
「ああ、そうでしたわね。知盛様が好まれる程度は、本当に難しくていらっしゃいますから」
「ですけど、すぐに身につけられるのですから、胡蝶さんは本当に筋がよろしくて」
 顔を見合わせてにこにこと。思い出話というにはあまりにも近すぎる過去の話だが、何せこの手の訪問は既にかなりの回数になりつつある。
 振り返り、ああだこうだと笑い話にできているのは本当にありがたい限り。だが、ひとつ思い出話が増えるごとに課題が増えるのは、いじめられているのかしごかれているのか、判断が難しいところである。嫌がらせではないと信じているのは、思い出話として振り返るどれもが、にとって有益な試練であったと自覚しているためなのだが。


「最近の知盛様は、要求が少々細かくていらっしゃいません?」
「それだけ、胡蝶さんが腕を磨いていらっしゃるということでしょう」
「本当に。ここまで知盛様の好みを把握していらっしゃるのですもの。そろそろ安芸殿に追いつけるのではないかしら」
「安芸殿は、もうすべてお任せしても大丈夫でしょうとおっしゃっていましたわよ」
 まあ、と大袈裟なほどに上がった歓声が宙に散るよりも先に、ようやく全員の意識がへと向けられる。初耳にも程のある発言に目を白黒させつつ、思いがけない高評価に隠しようのないほど頬を真っ赤に染めたまま、はけれど千載一遇の機を逃すような愚は犯さない。
「あの、それで」
 すかさず口を開き、発言権を獲得する。仲が良く結託力も強い女房仲間は非情に頼りになるのだが、会話の切れ目を狙って自分の要求を伝えることは、この邸に引き取られて半年以上が過ぎた今でも至難の業なのだ。


「あの、実は、皆様にお願いしたいことがありまして」
 既にここを訪ねた時点でそんなことは承知済みといった様子ではあったが、一応、は用意しておいた文句を冒頭から紡いでいくことにする。
「文の書き方を、教えていただきたいのです」
 基本的にどんなことを尋ねても丁寧に教えてくれると知っているため、必要以上の緊張であるような気もしたが、今回はなにせ状況が状況である。意を決してなんとか言い切った言葉につい肩から力が抜けるのと、驚愕の視線が突き刺さるのは同時。
「文、と申されますと」
「まさか、胡蝶さん、どちらかに送られるおつもりですの?」
「そんな! いったいどちらの方です?」
 新しく降って湧いた恋の噂に沸き立つというよりは、困惑の色味の強い反応である。想定していたのとは方向性のずれている反応に目を円くしながら、言葉が足りなかったかとは慌てて口を開く。


「あ、いえ。わたしが送るといいますか、いただいた文に自分でお返事を出せるようになりたいと思いまして」
「……これまでは、どうされていましたの?」
「知盛殿や安芸殿が手伝ってくださっていたのですが、さすがに増えてきましたので、あまりお邪魔もできませんし」
「………知盛様に、ご相談していらしたの?」
「その、お断りのお返事を出したかったので、男性がどのように感じられるかをうかがうのが良いのかと思いましたので」
 しかし、聞けば基本的に知盛は捨ておけとしか言わないし、そうなれば安芸にしか頼れないし、安芸はいつでも忙しいし。ぐるぐると廻った結果、自分の手腕を磨くしかないという結論に至るのは当然だった。


「お断りの文の書き方を、知りたいのですね?」
「え? あ、はい」
 なぜか力強く念押しされたことは不思議だったが、相違ないので二つ返事で頷いたを手招くのは一人の女房。
「でしたら、本日は私がお教えしましょう」
「そうですわね。明日よりは、またこれまでのように順を決めて」
「胡蝶さん、それでよろしいですか?」
「はい。お手数をおかけして、本当に申し訳ないのですが」
 漂った不穏な空気はほんの一瞬のこと。あっという間にもはや身に馴染んだ調子で教師役になることを承諾してもらったことに感謝して、は深く頭を下げる。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」


「どうしましょう?」
「これは少々、厄介ですわね」
「一度、安芸殿に確認をしておきましょう」
「そうですわね。胡蝶さんも、お断りだけではなくきちんとした文の送り方も学びたいと思われるでしょうし」
「ですけど、知盛様がお許しになるかしら?」
 手始めにまずは取り急ぎ返事をしたためたい文をみせてほしいと申し出た女房を伴ってのの退室を待って、残された女房達は揃って溜め息をつく。
 普段は人を寄せ付けない知盛の曹司への立ち入りが許可されていたり、東の対に局を移されたり。がいまいちそれらの意味をわかっていないらしいこともそろそろ共通認識となりつつあったが、少なくとも知盛がを特別扱いしていることは明白だったのに。
「知盛様は、胡蝶さんをどうなさりたいのかしら」
 恋の噂は女房勤めの重要な要素であり貴重な娯楽なのだが、この邸においては若干意味が異なってくる。図らずも全員分が重なった吐息には、恐らくこの一件について既に頭を痛めているだろう女房頭への同情が多分に詰め込まれていた。

Fin.

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