学習すること
黙々と、あるいは粛々と。あっという間に生み出されていく乱れのない縫い目の列に、朔は改めて感嘆の息をこぼしていた。
「本当に、見事な手際ね」
ずっと同じ姿勢で作業に勤しんでいるというのに、には疲れた様子など見受けられない。写経の際にはやはり同じような姿勢で同じような作業を繰り返していても特に体が強張ることはないのだが、決して身近でない作業の連続となる朔は、肩の筋肉が張り詰めている。
「慣れによるものでしょう。はじめの頃は、こうして足を崩さず座していることさえ苦痛でした」
手元に落としていた視線を持ち上げて、いたずら気に笑う表情はどこか幼い。兄よりは年下だろうが、九郎と比べればどうだろうか。年齢を問うたことなどないが、少なくともこの時の表情ばかりは少女のそれであると思う。
それでも、さすがに根を詰めた作業は少なからず神経をすり減らすらしい。小さく息を吐き出して瞬きをみっつ。それから、は針と布とを脇にのけて、替わりにすっかり冷めてしまった椀の白湯に口をつける。
「ですが、朔殿も十分お見事な手際だと思いますよ」
ことりと首を傾げてほんのり目を細めながら、はころころと喉の奥で笑声を転がす。
「わたしはずっと繕い物が苦手で。知盛殿が文句を特におっしゃらないものですから、なおのこと胸が痛んだものです」
「そうなの?」
懐かしげに語られるそれは、遠く隔たるばかりだった一門の、あまりにありふれた日常の姿。軍において兵達からあれほどの恐れを向けられる鬼神の、ありうべからず人間味にあふれた一面。
「なんだかとても意外だわ」
告げられた内容がどうしようもなく信じ難くて、朔は静かに瞬きを繰り返した。床に置かれた布地に並んでいる縫い目からは、その告白の片鱗など微塵も垣間見えないというのに。
「わたしは知盛殿のお立場をあまり知らぬままにお仕えしていましたが、だからといって主にみすぼらしい衣装を纏わせるわけにはいきませんもの」
そっと布地を撫でて微笑み、はそれは誇らしげに言葉を編みあげる。
「主の装いは、翻ってお仕えする女房の手腕。お仕えする我々の失態は主の瑕になり、成果は主の糧となります。それに、我々が励めば励んだ以上に、誉を返してくださるのが知盛殿でしたから」
「……殿は、本当に知盛殿が好きなのね」
「わたしに限らず、知盛殿にお仕えしている女房も郎党も、みな知盛殿を敬愛しております」
にこにこ笑う表情に無理はなく、羨ましいと、そう素直に感じて朔もまた笑った。一族の姫として育てられた朔にとって、の抱いているらしい感覚はいまいちわからない。それでも、今や一族を率いる立場として立つ兄がこのような思いを郎党達から向けられていたらどれだけ誇らしいことだろうと、そう思う。
当人の「繕い物が苦手」という申告が事実なのか謙遜なのか、朔にはわからない。少なくとも今、朔の面前で手を進めるにはその気配など見受けられない。ならばそれは過去のことだろうし、その過去を踏み越えて現在に至るまで、いったい彼女はどれほどの努力を積んだのだろうとも思う。
「たくさん仕立てる機会があったからとおっしゃっていたけれど、それだけではないようだわ」
あなたの世界では、必要のないことだったのでしょう。思わずそう問うてしまったのは、怨霊が発生したとの噂を聞きつけて出かけているもう一人の繕い物仲間を知っているから。
彼女は彼女で一生懸命なのだが、いかんせん上達の速度があまり芳しくない。元の経験やら才能やらを同程度と考えても、あの調子では鍛え上げられる前に音を上げてしまうか、鍛える側が匙を投げかねないほどに。
口にはしなかったが、思っていることが通じてしまったのだろう。微かに苦笑を浮かべて、は困ったように首を反対側に傾ける。
「それはきっと、必要性と、切実さの違いでしょう。望美殿は好奇心を発端としておりますが、わたしは生きるための術として学ぶことを発端としていましたから」
なるほど、それは実にわかりやすい理屈であった。確かに、誰も望美に繕い物の腕を要求はしていないし、かつてのは日常を女房として過ごしていたというのだから、繕い物ができることは最低限として求められる技能だったろう。
「学ばなくとも、暮らすことはできたでしょう」
わずかに視線を伏せて、手の内の椀の中身をじっと覗き込むようにしながらは言葉を継いでいく。
「ですが、わたしは知盛殿のお傍で生きることを、望みましたから」
そして垣間見えたのは、彼女がわずかに明かしてくれた“月天将”と表裏をなす日常に至る以前の、恐らくは岐路。自覚があるのか無自覚なのか、その横顔は深い慈愛に満ちている。
「乞えば、導いてくださいました。道を示し、追うことを許してくださいました」
振り返ったり、立ち止まって待ったりはしてくださいませんでしたけど。そう言って目を持ち上げた笑みはいたずら気で、けれど諒解し合っている者同士の深い信頼と甘い気安さが眩しくて。
「追いつくことを確信して、疑うこともなさいませんでした。そして、追いついた際には、よく追いついたと笑ってくださるんです」
まったく、どれほどの尊い時間を重ねたというのか。はにかみながらも誇らしげな笑みと声とに、朔は頬が弛むのを感じ、胸が切なく締め付けられるのを感じている。
「賞罰の使い方を、よくよくご存じだったのね」
「子守りは慣れたものだとおっしゃっていましたので」
あえて混ぜ返す言葉を選んでみれば、おどけたように肩をすくめられる。こうして笑い合っていれば、がかつて自分達を震撼させていた敵将だということを忘れてしまう。彼女も自分も、自分が慕う人々も、彼女が慕う人々も。皆、等しく人なのだ。
和議は成るだろう。誰も平和な終焉になど目を向けようともしなかったが、誰かを思う心が結実し、我欲とも呼べるだろう願いが時勢さえ動かした。その一端を担い、あるいは担わせた存在が目の前にいる。かくもありふれた姿で。
不思議な感慨だった。冷えてしまった指を火桶で温め、白湯を啜り、他愛のないおしゃべりに興じながら繕い物に精を出す姿には、時勢を動かすほどの何がしかなど微塵も感じられないのに。
戦乱が早く収まればいいと願ったことはあったが、では平和になったらどうしたいかということを考えたことはなかった。平凡そのものの時間をこうしてのんびり過ごすことでようやく目の向いたその思考を、そして朔は自分ではなく対なる存在へと振り分けてみた。
望美が今後、いったいどのような道を生きるつもりなのかはわからないが、もしもそれなり以上の嗜みなり行儀なりを身につける必要が生じた際には、それこそ知盛を恃むのもいいのかもしれないとぼんやり考える。元の素質なり何なりという要件もそれこそ山のようにあるだろうが、生まれの背景を同じくするをここまで導いた実績は大きい。
そして、ふと思い至って、つい切なく唇が歪むのを自覚した朔は、何気ないふりを装ってそっと視線を手元に落とした。朔が望美と出会ってからの約一年の間に、自分達は彼女にそういった常識めいたものを一切教えることがなかった。手すさびのように舞を教えたことはあっても、その程度。
そんな殺伐とした時間を重ねるしかなかった自分達が、なんだかとても小さい存在のように思えて、情けなかったのだ。
Fin.