記憶すること
手慣れた調子で、特に何を思い悩むことなく体が勝手に動くはずのことを淀みなく行えなくなっていると実感する時、安芸は失われた存在を強く強く、思う。別に、何を言葉にするわけではない。けれど確かに伝わる拒絶を正しく読み取れるのは、この主の許にて過ごした時間と与えられた信ゆえに。
「寝酒なぞ、ご用意した方が良いのでしょうか?」
「……そうですね」
惑うようにかけられた問いかけには、同意ではなく逡巡の言葉しか返せない。
申しつけられた分の酒は、そろそろ尽きている頃だろう。このところの主は、酒を白湯か清水のように干すばかり。ゆるりと楽しむゆとりなど、どこか遠くに捨て去ってしまったらしい。となれば、そろそろと思う今、追加の有無をなんとか探り出すのが傍仕えの女房に求められる気配りというものなのだが。
「いつなりとお出しできるよう、準備だけは整えておきなさい」
悩み、けれど紡ぎ出せたのはそんなもどかしい次善の策のみ。今の自分達にはそれがなしうる最良の策なのだと、知っていればこそ控える女房もまた悲しげに「はい」といらえる。
そこを不可侵の領域となさしめた一端を担っていた自覚があればこそ、安芸はもどかしく切なく、狂おしい思いに駆られている。
己の選択を誤っていたとは思わない。彼女と彼の在り方を誤っていたと思いたくはない。誰もが精一杯に未来を見据え、なせるすべてをなさんと足掻き、もがいていた。その結末がこうしてもつれているのは、神の悪戯か、運命の意地悪か。
その場に踏み込むことを許され、決してそこに佇む彼の心に触れることを許されなかったかつて。安芸は、気づけば根差しつつあった可能性を知った時、惑いつつも縋る思いを殺せなかった。そして、その可能性が青々と葉を茂らせ、美しく花開く様子を目の当たりにできる己の幸運を本当に嬉しく思ったのだ。
どうせいずれはどこかの貴族か、豪族か。彼の意思には関わらず、いずこかの“殻”と結ばれることを決定づけられており、それを当人も受け入れていた。彼が“平知盛”である以上、どこに在っても誰とあっても許されることのなかったろう暗黙の了解の中に湧いた、夢のような例外。
それに気付いたからこそ、知盛はそこに他の誰が踏み込むことも許さず、安芸もまたその画策に全面的に協力した。当の娘がどこまで察していたかは結局わからなかったが、少なくとも己の立ち位置の特異さと稀有さは理解していたし、その事実を誇らしく愛おしんでいるようだった。
そのまま、夢は夢のまま紡がれていくだろうと思っていた。彼と彼女の負う名の違いゆえに、彼が彼女を至高の位置に置くことは不可能でも、彼女にとって彼は至高の存在だった。たとえ彼女を見染め、仮に通う男ができたとしても、この不可思議で危うい夢ばかりは例外として紡がれていくと確信できていた。その可能性を孕ませた上で知盛が張った罠を、だって明かされ、周知を手伝ったのは他ならぬ安芸なのだから。
踏み入ることのできない一角へと続く道の中で最も手近な房にて、宵の頃まではせめてと思って控えている。適度な頃合いに下がるよう心がけているのは、そのように指示をされたからだ。ありし日々にはなかったその指示を受けたのは、手探りで徐々に距離を詰め、どこに控えているべきかと、かつては無意識にできていた彼にとっての己の位置を計り直していた際のことだ。
私的に寛ぐ時間帯、基本的に誰のことも寄せ付けたがらない主の手近にあるのは、彼女に傍付きの女房としての座を譲るまでずっと安芸の仕事だった。何かあった際、彼の纏うしじまをせめては最低限に乱すのみで呼びかけられるよう、細心の注意を払えるのはこれまで積み上げた経験ゆえに。
邸に侍る女房の誰よりも経験の浅い彼女がそしてその特異な位置に招き入れられたのは、主が纏う静寂が、彼女の存在を含むそれへと定義しなおされたからだ。ごく緩やかに、けれど確実に。無論、恐らくと察される大きな変化点もいくつか見受けられた。それでも、振り返って初めて「嗚呼」と感嘆してしまうほど自然な流れで、主は確かに、これまでとは違うどこかへ往こうとしていたのに。
穏やかなはずの夜のしじまが、息苦しいほどに重かった。衣擦れひとつ、呼吸ひとつ立てることさえ憚られて何もかもを殺しながら、蒼い静寂に沈む。彼女の存在を彷彿とさせる色の中に、落ちていく。
「――誰ぞ」
「はい」
気のない調子で放たれた家人を呼ぶ声にすかさずいらえれば、御簾を隔てた廊の向こうから、姿の見えない主の問い。
「安芸だけ、か?」
「警護の者は控えておりましょうが、こちらには私のみが」
誰かを招く声ではなく、拒絶する声でさえなかった。淡々と事実のみを確認し、呟くように「そうか」との言葉が吐息に絡む。
「今宵の警護は、坂上のだったか」
ゆるゆると紡がれる声は、かつてと同じ調子でごく静かに夜闇に拡散していく。けれど、確かに違う。何かが違う。違和感の正体はわからずとも原因などひとつしか思い当たらなくて、安芸はただただ唇を噛む。
「今日は、もういい……下がれ」
穏やかに促す口調でありながら、それは絶対の命令だった。静かに「はい」とだけ応じ、見えないとわかってはいても丁重に頭を下げてから安芸は裾を払う。
かつてであれば、こうして下がる機運を見逃すことはなかった。声をかけられるまで居座るのは、いつだって主に物申さねばならないことがある時のみ。第一、下がれとわざわざ命じられることなど滅多になかったのだ。
いたずらに人の気配があることを厭う主ではあったが、同時にそうあってしかるべき立場に生まれ、生きてきた。ゆえにあまり気にすることもなかったのだろう。邪魔をしないなら好きにしろと、そういう態度と関係性で、ずっと過ごしてきたというのに。
廊の途中で足を止め、振り返ってもそこには夜の闇と静寂がわだかまるだけ。細く、静かに、さざ波のように紡がれていた不可思議な旋律は聞こえない。手すさびのように紡がれていた今様も、何かを称賛するのんびりした拍手も。
もう、思い出せなかった。彼女が彼の傍らにまだいなかった頃、彼はいったいどうやってこのやりきれない夜の闇を過ごしていたのだったか。確かに存在した日々なのに、何を意識せずとも体が覚えていた時間の過ごし方なのに。何ひとつ思い出せない。違和感しか残っていない。
「あの、安芸殿」
物思いに耽ることでつい立ち止まってしまっていた背中に、おずおずとかけられたのは聞き覚えのある女房の声。振り返る頃には女房頭としての威厳を湛えた表情を取り繕い、安芸は自分が出していた指示を思い出す。
「今宵は、もうよろしいそうです」
「かしこまりました」
もどかしさを殺せない声には、痛ましさを隠せない声が。そのまま深く一礼して踵を返す寸前、彼女がふと主の佇む方を見やったのは明白。静々と立ち去る背中を見送ってから、安芸は堪え切れなくなった溜め息を深く長く吐き出した。
Fin.