朔夜のうさぎは夢を見る

手を使うこと

 少しばかり時間が欲しい。そう、珍しいことこの上ない要求を差し向けてきた相手に、九郎はどう返すべきかをつい考え過ぎてしまった。
 難しく考える必要などないのだろうと、思う。どんな要件であれ、出向いてみればそれではっきりするのだ。要求に応えるだけの時間的ゆとりがまったくないわけではないし、どうせ一度は顔を見せるつもりだったのだし。
 はじめから決まっていたに等しい返答を、それでも散々に悩んでからようやくひねり出した九郎を見て、友人であり同士である二人の男が顔を見合せて笑っているのが腹立たしい。
「何だ、お前達。言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいだろう」
「いいえ、別に」
「うん。別に、あえて言いたいことはないよ」
 だったらそんな、いかにも楽しげに自分を見せものにする視線を送るなというのが九郎の主張。そして、聞き届けられることはないとわかっているのだから無駄骨は折らずにおこうと思える程度には、九郎はこの二人との付き合いが深いし、最近とみに大人になった己を自覚していた。


 あまり時間を取ることはできないと伝えておいたが、それでも構わないからと返された。ならばと思って出向いてみれば、何のことはない。確かに彼女の要件は、九郎が出向かなければならないそれであった。
「そんなに肩に力を入れないでいただけませんか?」
「入っているか?」
「なんと申しますか、緊張なさっているご様子です」
 背中から響く声にびくりと大袈裟なぐらい筋が強張るのは自分でも感じ取れていた。それでも、そのことを笑ったりなどせず、彼女はほんのり困ったような声色で語りかける。
「お召しになられた際に不自然にならないようにするには、自然体の状態で丈を確認させていただきませんと」
「俺としては、変に力を入れているつもりもないのだが」
「背を取られている状態に不慣れであられることは、致し方ないと思いますけれど」
 成り立っているのか擦れ違っているのか。恐らく弁慶あたりが聞けばくすくすと笑いながら揶揄の一つや二つも入れてきそうな言葉を交わし、そして彼女はふと思い立った調子で「ああ」と声を上げる。


「大きく息を吸ってください」
 何を言い出すのかとも思ったが、問いただすにはその要求はあどけなく、反発するのも大人げない。言われたとおりに大きく息を吸い込み、その瞬間を計ったかのように継ぎ足された「吐き出してください」の注文にも素直に従う。持ち上がった肩が、ゆっくりと落ちていくのを自覚する。
「はい、もう結構です」
「は?」
「終わりましたので」
 そしてあっという間に、背にあてがわれていた軽い触感が消え失せた。その要因だった作りかけの衣を器用に腕に纏めて、ずっと背面に立っていた娘が九郎の正面に戻ってくる。
「ありがとうございました。やはり、少々袖丈が短かったようです」
 にこりと満足そうに笑う表情に、無理や虚飾の影は見られない。では、きっと彼女は要求事項を満足せしめたのだ。


 九郎は己を武の者として磨いてきた自負はあれど、雅事やら歌舞の類やら、そういった方面に時間を割いた覚えがない。弁慶やヒノエといった女慣れしている面々はともかく、景時にさえ「もうちょっと多方面に目を向けようよ」と言われたことがあるし、その指摘をもっともと思いつつ、ずっと放置し続けていたこともわかっている。
 だから、望美の舞の腕もわからないし、の所作の流麗さも、正確に理解しているとはいえない。歌を詠むことも評することもできなければ、華美な装飾の施された宝物の価値もわからない。当然、衣の良し悪しも、いまいちわかっていない。
 けれど、九郎はが腕にかけている衣が、実に丁寧に仕立てられていることを見てとることができていた。仮にその評価をヒノエあたりが否定しようとも、九郎にとって上質な一品であることに違いはないと断言できる。
 見知らぬ誰かがいつの間にか、知らぬところで仕立てているどれほど高価な一揃えより、見知った相手がこうして、纏う人間を確認しながら仕立ててくれている一揃えの方が、九郎にとっては価値があるのだ。
 もっとも、それでも九郎にとって、衣を仕立てるという行為はまったく未知の領分である。
「お時間を取らせました」
 どうやら、思わず物思いに耽ってしまった沈黙に、彼女は状況報告を求められていると勘違いしたらしい。もう少し丈の長い状態で仕上げることといたしましょう。身頃の幅は、手直しが必要というほどでもありませんでしたので。そう次々に伝えられる言葉の意味するところを察するまでに要した時間もまた、決して短いものではないさらなる沈黙として横たわってしまったのだが。

Fin.

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