朔夜のうさぎは夢を見る

認識すること

 とりとめのないざわめきに満ちた背景を切り裂くように凛と板敷きを踏む娘が、思った以上に華奢な体躯であることに、範頼は小さく目を見開いていた。
「なあ、梶原殿」
「驚いた?」
 ついうっかりという調子で呼びかけた自分も自分であるのだが、名を呼ばれただけでそんな切り返し方をしてくる景時も景時である。思わず眉間に皺を刻み、けれどすぐに諦めて「ああ」と呻く。
「本当に、あれが“あの”月天将なのか?」
「そうだよ。正真正銘、平知盛殿の腹心である、月天将殿」
 もっとも、俺も彼女が戦っている様子は見たことがないんだけどね。おどけた調子で混ぜ返してから、景時は溜め息交じりに言葉を続ける。
「こうしていると普通の女の子にしか見えないから、不思議な感じだよ」
「俺にはもっと実感が湧かない」
「だろうね。俺も、心のどこかでは今でも“やっぱり違うんじゃないか”って、思ってるもん」
「……冗談だろう」
 勘弁してくれと思わず呟いたことに景時が特に反応を示さなかったのは、きっと範頼の思いに共感しているからなのだろう。舞台に知盛が近付くにつれて引いていくざわめきにつられたわけではないのだが、それきり二人の会話も途絶える。残された時間は、これまでに範頼が見知ったことのないほどの幽玄さ。展開される麗しき舞踊に見入るばかりの、束の間の白昼夢。


 上座を占めていた方々が去ってよりしばらくもしないうちに、あからさまな勧めと実に馴染んだ様子で席を外した二つの背中を見送り、範頼はもう一度、同じ感慨を繰り返す。
「本当に、あれが、あの?」
「だから、そうだってば」
「納得がいかない」
「信じられない気持ちは、とってもよくわかるけどね」
 苦笑交じりの声はどこまでも優しくて、そういえばこの男は、捕虜であった時分の彼女と接点があったのだったと範頼は思い出す。そして、もう一方の感慨の原因とも。
「新中納言も、あんな男だったとはな」
「“あんな”って?」
 しかし、今度の感慨に返されたのは、ごく純粋に疑問の声であった。景時が元は平家の郎党であったことは知っていたが、もしやこれしきの様子など見慣れているのだろうか。
 かつての主が誰であったかなど聞いたこともないし、嫡流の子息との接点なぞ、あったとは考えにくい。もっとも、その可能性を完全に否定させないのが、平新中納言につきまとう風変わりとの人物評。


 戦上手の呼び声高い策士であり、参陣の噂だけで兵を震え上がらせる戦士であり、此度の和議における影の最大の功労者の一人に名を連ねているとも聞く。かつて、平家一門の都落ちに際して源氏方へと戻された北面の武士達は、彼の名のもとに従えられていた日々を誇りだと言う。
 いかにもよくわからないその在り方に、範頼は平知盛を人間離れした存在と捉えていた。俗世に染むことなどなく、超然と時を踏破する命なのだろうと。
「あれではまるで、ごく普通の男じゃないか」
 ところがどうだ。和議の席でも先までの酒の席でも覆されることのなかった評価に、たった一人の女が罅を入れる。小さな、けれど確かな罅を。
 口にしたのは素直な感想だったが、少なからず突飛で不躾であることも自覚していた。呆気にとられたのか、反応に困っているだけなのか。返される言葉がない沈黙を、範頼は遠慮なく奪い取る。


「軍神だの鬼神だの、とんでもない二つ名を聞くからにはどれほど人間味のないヤツなのかと思っていたんだがな」
「……普通すぎて、拍子抜けしたってこと?」
「気落ちしたわけではないが、そういうことだ」
 ようやく返されたくせに、声はすっかり苦笑交じり。景時の、この妙に余裕のあるそぶりが普段は気に食わないのだが、今回ばかりはまっすぐ受け取っておいてやろうと範頼は思う。返す己の声もまた、ろくろく知らない相手を評すわりに、妙に気安い調子である。
「まあ、アレだよね。百聞は一見に如かず、って」
「そうなんだろうな。俺もまだ、精進が足りないか」
 とりあえず、今日という一日の中で平家方の面々をじかに垣間見た限りでは、この先もなんとかやっていけそうな気がする。鋭く端的に状況をまとめた景時の言葉についうっかり素直に頷いてから、範頼もまた周囲と同じく野次馬根性を剥き出しにして、不器用この上ない男女が戻ってくる気配に聞き耳を立ててみた。

Fin.

back to 彼はそれでも人間である index

http://mugetsunoyo.yomibitoshirazu.jp/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。