朔夜のうさぎは夢を見る

感覚すること

 行き場を失って途方に暮れる娘の手を引いてやってきたのは、よく似た銀色兄弟の弟君。困ったようにはにかむ目元は、ひたすらの気遣いに濡れている。
「胡蝶」
 この心境は、いかなものだろう。せっかく帰ってきてくれたというのにどこまでも居心地の悪そうな表情がいたたまれなくて、時子は思わず腰を浮かせてその名を呼ぶ。名を問い、間近に接したのは幾年前のことか。あの春の夜のことは、今でも覚えている。
 偉大なる総領を喪い、あの頃の平家は少なからず塞ぎこんでいた。それでも、共に手を取り合って悲しみを乗り越え、未来へと邁進する希望も確かに孕んでいた。まだ、人道の最後の一線まで踏み外してはいなかった。平和で平凡だった時代を思い出す際に分水嶺として脳裏をよぎる、最後の桜吹雪。


 急いた摺り足にて距離を縮め、息子の手からその細い指を譲り受ける。そうして頼りなく揺れる双眸をまっすぐにのぞきこめば、幾度か息を呑んだ唇が、そっとほどかれる。
「二位ノ尼様」
 知りたくなどなかった。けれど知った今、彼女の在り方を嘆くようなこともしたくはなかった。ただ、複雑に入り乱れる思いを無視することだけはできなくて、時子もまた息を呑む。あの春の夜に聞いたのと変わらない音だというのに、どうしてこうも彼女の声が悲しげに揺れていなくてはならないのだろうか。
 何が、どこから、どのように。問うても詮無いこととわかってはいても、思いを馳せずにいられないのはさて、年経たからか、元よりの性格か。つらつらと巡る思索を緩慢に振り払い、時子は見据えるべき現在へと焦点を絞る。
「よく、無事に」
 それ以上の言葉は、音にならなかった。


 銀色兄弟の兄君の配下に、姫将軍がいるという話はあまりにも有名だった。その話を聞いた折りにはなんともまた非常識なことをと思い、風変わりな娘がいると思い、それで仕舞いにしてしまったのだ。
 掘り下げて聞き知ったからと、何ができたかはわからない。それでも、後になってただ悔いるばかりより、もっと知る努力をするべきだったと自省した。戦場に駆けだす娘なぞ、時子の感性にはどうしてもしっくりこない。世の常識からも乖離しているし、こうしてあまりに恵まれた結末に辿り着けばこそ礼賛される立場を手に入れるに至ったが、ひたすらに誹りを受ける結末をこそ覚悟すべきだったと、知盛もこの娘も、きっと知らなかったことはなかろうに。
 武勲華々しい姫将軍。常勝の戦姫。将兵の尊崇する神将であり、鎮魂の舞姫でもあり。
 血なまぐさい話は基本的に時子の耳には届かない。ゆえ、詳しいことは何も知らなかった。知らぬ立場を貫き、口出しをせぬ立場を貫く。それが己に課せられた役回りであることを知っていた。


 時子はだから、息子に対して女子を戦場に連れていくなどと、と苦言を呈することはしなかった。知盛の頭の良さは、時子もよく知っている。優しく不器用で、必要と判じたことに対しては誰よりも非情になれることも知っている。良くも悪くも、知盛は才ある将であり為政者であり、宗家の男子であった。その彼が必要と判じて連れているのなら、そこにはきっと時子が本当に知らない、そして揺るがせない理由があるのだろうと信頼していた。
 三草山にて月天将が行方知れずになったとの報告を聞いた際、時子は初めて知盛の連れているという姫将軍が、いつかの宴席で言葉を交わした娘であることを知った。あまりにも結び付かないふたつの存在を、しかし「ああ、そうなのか」と心の奥底で納得せしめたのは時子が知盛の母であったから。そして、そう納得できた己のことが誇らしくて、過ぎてみなくては気付けなかった己のことが、不甲斐なかった。


 包み込んだ指先はほっそりとしなやか。触れたことなどそういえばなかったが、同じく戦場を駆け抜ける息子達は、もっと大きくて強いような気がしていた。こんなにも頼りなげな指で、彼女はいったい何を斬り、何を抱え、何を踏み越えてきたのだろうか。この指もまた、自分達を守ってくれた、大切で尊い犠牲に濡れているのだろう。
「よく、よくぞ無事に戻ってくださいました」
 時子は見たことがない。この指が刀を握っている姿も、手綱を捌いている姿も。この指に髪を梳かれて眠るという息子の寝顔も、やんちゃが過ぎて衣を破いてしまった孫息子がこっそり頼りに行っていたという泣き顔も。
 この指はすべてを知っている。時子が愛した平穏も、知らずに在ることを求められた阿鼻叫喚も。奪われることも守ることも、何もかも。
 ただ、取り返すことだけは知らない。帰りつき、きっと彼女が最も触れたいだろう先には、まだ指先が届かずにいる。こんなにも頼りなげだというのに。時子の手でも包み込めるのだから、きっとあの子の掌にはすっぽりと収まるのだろうに。


 体温を分け合いながらもいまだ居心地が悪そうにどこか腰の引けている様子に、時子はそっと指先に力を篭めてその視線を自分へと引き寄せてから、静かに頷いてみせた。きっとまだ間に合うと、そう信じている。間に合わせるために、こうして今まで何をすることもできなかった自分にできることをと探して、時子は娘の手を握っているのだ。
「おかえりなさい」
 彼女が還内府と故郷を同じくするという話を聞いて用意していた言葉を手向ければ、惑うばかりだった双眸が切なく揺れる。けれど決して流れることのない涙を拭う役目はきっと息子のものだろうから、この場で泣くことを強要はしないけれど。
「おかえりなさい、胡蝶。あなたが無事に帰ってきてくれて、本当に嬉しいですよ」
 言って指を引き、腕の中に抱きしめた娘の指に確かに力が篭められたことを感じ取って、時子はその背中の向こうで淡く微笑むもう一人の息子と、張り巡らせた策をなんとしても成功させることを無言にて誓い合う。

Fin.

back to 彼はそれでも人間である index

http://mugetsunoyo.yomibitoshirazu.jp/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。