心配すること
部屋の中での遣り取りをすべて聞き取ることはできなかったが、寒々しいほどの冷静さを湛えて二人が相対していることを読み取るのは、そう難しいことでもなかった。ぴりぴりした空気が伝わってくるのが、肌に痛い。
ことさら気配を消しているわけでもないのだし、別に構わないといえば構わない。それでも、あの笑顔の恐ろしい状態の弁慶とそつなく会話をこなしながら、姿の見えない景時にまで鋭い警戒を送ってくるあたり、やはり彼女は“月天将”なのだろう。
三草山で捕らえた後、京までの行軍の中で見かけることはあっても、その後の庶務に追われて景時はまだ、彼女と正面から向き合ったことはなかったのだ。弁慶が随分と手を焼いているらしいという話は聞いていたが、後は末端の兵よりも多少は噂の信憑性を判断する情報を持っているという程度。初対面がまさか、自軍の兵の不始末を片付けるための裏工作の場になるとは、予想だにしていなかったのだが。
さほどの間を置かずに室内からかけられた招きの言葉に応じて、景時もまた御簾を潜る。初夏の日差しが薄暗い室内を明るく照らし、きらりと光ったのは深更を思わせる双眸。表情を殺し、感情を押しこめ、ひたと見据えてくる眼光は鋭利な切っ先を思わせる。
「あー、警戒しなくていいよ」
へらりと笑って小首を傾げれば、そこにはいかにも頼りないひとりの男が演出されるはず。良くも悪くも、軍奉行などという面倒な役職について長い景時は、己の見せ方を知っている。侮られているぐらいが、丁度いい。
弁慶はその風貌を利用して優男の己を演出しているようだが、景時が演出するのは優柔不断で臆病と紙一重なほどに慎重な、気弱な青年。剣の腕がさほど立たないという自覚と事実もあり、それは実に信憑性の高い演出として多くの相手の目を欺き続けている仮面であるのだが、娘の表情は変わらない。
あくまで硬い表情に今度は素直に困惑を示しながら、救いを求めるのは先客に。
「まずは、座ったらどうです? 君は、ただでさえ背が高いのに」
視点の違いは相手にいたずらに威圧感を与えるだけだと。言葉が示す以上の意味があるのだろう。言いながらぽんぽんと自分の隣の床を叩く弁慶が指定したのは、周囲に聞かれたくない内密な話をするには、少しばかり相手からの距離がありすぎると思われる場所。
「ここまでなら、大丈夫ですか?」
さほど乱暴な立ち居振る舞いをしているつもりはないが、景時が腰を落ち着けるのを待って、弁慶が月天将に問うたのはそんなことだった。
「え? ちょっと弁慶、酷いなぁ」
「酷くありませんよ。君を、ちゃんと男として認めているんですから」
別に敵将だからといって無体は働かないと、一般論のつもりで混ぜ返してから、飄々とした切り返しに景時は己の失言を自覚する。
「……ごめん」
搾り出した呻くような謝罪以外に、紡ぐべき言葉は思いつかなかった。
気丈に見つめてくる視線の強さとは裏腹に、気配が強ばっているのはきっとそういうことなのだろう。さすが、音に聞く平家の勇将は敵地にあってもなおその強さが眩いなどとのんきに考えていたのだが、そうではない。彼女は、弁慶に景時という存在そのものに怯える心を、必死に押し殺しているのだ。
「あの、俺の言えたことじゃないかもしれないけど、無理ならそう言ってね?」
一応、弁慶からの呼びかけを待つまでの間に声が漏れないよう結界は張っておいたのだ。人払いもかけてあるし、彼女と多少の距離をおいて対峙しても、外に漏れるのを恐れて潜めた声が届かなくて会話が成立しないという事態にはならない。
「いえ」
しばらくその発言の真意を探るようにじっと景時を見つめていた蒼黒の双眸が、ふと瞬いてあえかに苦笑した。
「お気遣いには感謝しますが、これ以上のご配慮は無用です」
凛とした声を、そういえば景時は初めて耳にした。張り上げられるわけでもなく、疲れてどこか張りのない声ではあるが、芯の徹った強さを微塵も隠さない音。陰陽師としての感性が、彼女にまつわるもうひとつの異名を肯定するのをおぼろに感じ取っている。
「ご紹介します。こちらは、源氏の軍奉行で、」
「あ、うん。梶原景時です」
おもむろに言葉を切った弁慶に促されるように名乗りを続ければ、ほんのりと娘が口の端を吊り上げる。
「お噂はかねがね」
それは実に冷徹で怜悧な微笑だった。しかし冷笑ではない。かねがね、というのがどこにかかるか気になるのは、梶原家が元は平家に与する郎党であったという、遠からぬ過去を抱えていればこそ。
もっとも、内心の思いを表情に映すような愚を犯すはずもない。これでも景時は一族を率いる嫡流の男子。表情を繕うことさえできなくて、何が一族の頭か。
「えっと、話はどこまで聞いてるかな?」
「御大将がわたしのことを気に入ってくださり、側仕えとして召し上げることを決められたそうですね」
さりげなさを装っての問いには、淡々とした理想の言葉。実に気のない口調で聡明なる敵将は源氏の総大将の決定を淀むことなく読み上げてくれる。
「それに際し、陰陽師でもある軍奉行殿が術封じをかけることになった、と」
いったいあの短い時間の、いつの間に説明を終えたのか。それとも、ただ決定事項を伝えるだけで了解するほどにこの敵将の頭が切れるのか。真相は読み取れないが、今の景時には事実こそが必要なのだ。少なくとも、その件に関して妙な抵抗の意思がないことはしかと確認でき、知らずほっと息を吐き出す。
「うん。あの、わかっているとは思うけど、抵抗はしないでね?」
物理的な束縛の術でも抵抗の意思は対象に必要以上の負荷を与えるが、術を封じるということは、いわば精神的な部分に絶えず負荷を与えることに等しい。まして、声を聞くだけでもわかるほどの力の持ち主。ただでさえ少なからぬ負荷を与えることになるだろうと確信しているのだから、過剰に傷めつけるような結末はできれば避けたい。
「状況は理解しているつもりです。わたしには、被虐の趣味はありません」
仄かに笑って混ぜ返す言葉は強気で、楽しげに笑う弁慶の気配に、景時は内心で「同類か」としみじみ溜息をつく。
「さあ、九郎達が待っていますからね。急かすようで申し訳ないのですが、早速お願いできますか?」
「そうだね。心の準備は、大丈夫?」
「ええ。お願いします」
なんの気負いもなく頷く瞳に、暗い色はなかった。束縛の術をかけると言って、景時が彼女を害するという未来は想定していないのだろうか。侮られているのか、何がしかの自信があるのか、それとも弁慶のことをそこまで信頼しているのか。考えうる可能性はそれこそ際限なく。そして、その思索に意味はない。
なぜなら景時は、己には最終的な決定権がないことを知っている。彼女が生きているのは、遠く東から「殺せ」との言葉がなかったからに過ぎない。この先、いつかどこかでその言葉が耳に届いた瞬間、この束縛の術は彼女の拍動を凍らせる刃に変じる。
無防備に晒された額にそっと指を置き、正中線を呪言で縛り上げるように術をかける。そうして不可視の力の始点と終点を結ぼうとしたところで、幻視するのは牙を向く人外の存在。冴え冴えとした蒼に染む、紅蓮地獄を抱く焔。
思わず息を飲んだ瞬間、娘の瞳が気遣うように色を深め、そして幻想は闇に沈む。
「これで、終わりですか?」
どこか釈然としない思いを抱えて術を完成させれば、それを悟ったのか、何気ない調子で娘が小首を傾げる。
「……うん。たまに、様子を見てかけ直すことになるかもしれないけど」
「承知いたしました」
「では、景時。先に戻っていてもらえますか?」
必要な遣り取りも、どこか白々しく響くばかり。弁慶には視えず、そして気づかれなかったのだろう。さりげない仕草で景時を彼女から遠ざけるのは、必要な気遣いであるだけなのに。
どこか釈然としないまま部屋を後にして、簀子縁を渡っていた景時はふと足を止めて背後を振り返る。
「頼むから、大人しくしていてね」
黙って術に甘んじてくれていれば、あの得体のしれない力は表面化しないだろう。そうなればきっと、今以上に“あの人”の関心を得ることもない。宙にわだかまる独り言を掻き消すように、改めて足を踏み出しながら景時は小さく自嘲の笑みを刻んだ。気遣う思いに偽りはないが、きっと、いつか自分の保身に必要だと感じる時が来たら、この気遣いは跡形なく蹴散らされるのだろうことを、誰よりもよく理解していたからだった。
Fin.