朔夜のうさぎは夢を見る

殺すこと

 目の前に座す娘のことを、頭のてっぺんから袖の先にほんのわずかにのぞいている爪先まで、とくと見やる視線が何往復しただろうか。決して満足したわけではないが、これ以上の無言の遣り取りはもはや時間の浪費だと判断して、彼はひとつ、おもむろに顎を引く。
「うむ」
 巌のような声音で、つい漏れた音に意味はない。強いて言うなれば、これは契機にして意図的なきっかけ。停滞した空気を振り払い、次へ進むという意思表示。
「少し、話をいたそうか」
 次いで紡いだ要求に、座す娘――このたび正式に奥州藤原家に名を連ねることとなった、彼の新しい義娘なのだが――は、仮面のような微笑で静かに睫毛を上下させた。
 言葉遣いは実に丁重であり、口調も淑やか。端々で見られる挙措も洗練されており、対峙していて不快になる要素など微塵もない。
 猶子として迎え入れることを了承したからには、藤原家嫡流の名に恥ずかしくない人品であることをしかと確かめたいと思ったのだが、これはまったく、嬉しい誤算。どうやら、息子の言い分と彼女が仕える一族を信じた甲斐は存分にあったらしい。


 遣り取りはひどく他人行儀なものだった。昨今の天候にはじまり、季節の花の話、それぞれに平泉と福原や京の話、纏う衣の話に、用立てられていた肴の話。ごくごく一般的な会話を一通り終えて、いい加減にじれったくなった秀衡は、ついに自分から暗黙の了解を踏み越えることにした。
「しかし、こうしていると、そなたが将として刀を振るっていたということ、まったくもって信じられんの」
 彼女から切り出すかと思って控えていたというのが、秀衡の言い分だ。世にあってあまりにも異端なその在り方は、しかし種々の要因によって敬われるものと化している。それでも、彼女がその事実をどう受け止めているかがわからない以上、自分のような部外者が下手に触れてはならないことだと心得ていたのだ。
「刀を振るうのみならず、馬を駆り、弓を引き、この身に凝る人外の力にも手を染めておりました」
 だというのに、いざ触れてみれば娘はそのような気遣いなど露知らぬといった風情で単調に己が過去に爪を立てる。唇は相変わらず完璧なまでの微笑を描き、しかし双眸の奥で不穏な光が仄暗く自嘲を湛えている。


 うむ、と。ついこぼしてしまった声は、先と同じ音を、先と違う調子で彩っていた。今度は、振り返った過去に対する勝手な納得にして自己完結だ。生きてきた時間が長い分、一度振り返ればあちらこちらに目移りしてしまい、目当ての記憶と思い出を引き当てるまでに手間がかかる。だが、今回は実に手早くそれを引き出すことができた。
 つい眉間に力が入り、視界を狭めてしまったのは彼女が眩しかったからではない。たとえ近い過去であったとしても、過ぎ去ってしまった日々を微細な点まではきと思い出すためには、すっかり視力が衰えてしまったというだけの話。
 重なる光景はおぼろで、きっと正直に伝えたとすれば、彼女はともかく彼女の未来の夫君が良い顔をしないだろうことは明白だった。それでも、思い至ってしまえばずるずると思考はその一点に引き摺られるし、あふれる思いが止まらなくなる。
「似たもの“兄妹”になりそうじゃな」
「え?」
 止まらないし、止める必要もないし。湧き起こるまま鷹揚に笑い、秀衡はこの段になってようやく見ることのできた義娘の仮面の下の表情にますます笑みを深める。
「それだけ、必死であったということじゃろう」
 どうやら彼女は、その話題に触れられるということ自体に特別な嫌悪はないようだった。そうではなくて、それが周辺に与える影響を思い、数多の群像によって囁かれる謗りの言葉をこそあたかも真理のように扱っている。
「儂は、そなたのその在り方を決して蔑んでもおらんし、厭うてもおらん。すべてを頭ごなしに決めつけるほど、器の小さいつもりもない」
 彼女のその過去が女性のものとして実に奇妙で突飛で、一般的には決して褒められたそれでないということぐらい、わかっている。だが、だからといってそれを秀衡の価値観だと決めつけられるのは不本意だった。
 もちろん、噂に聞いた折にはなんと風変わりな娘かと思ったし、彼女を擁す平家に、女子供を戦場に引っ張り出すとは何事かと憤りを覚えたものだ。けれど、それはあくまで一般論として。秀衡は武蔵守であった頃の知盛に会ったことがあるし、その人品を少なからず知っている。奥州を率い、守る立場としてあらゆる情報を入手していたし、今回の要請を受けるに際し、当事者の声を聞いた泰衡からも様々に話を聞いている。そうして内情をつぶさに知ってなお彼女の在り方を真っ向から否定するには、自身が情に脆いということも自覚している。


「のお、よ」
 ゆったりと呼びかけたのは、娘の名。貴族の嗜みとしてはたとえ実の親子でも、裳着をすませた娘と直接顔を合わせたり名を呼んだりすることは眉を顰められる行為だが、自分達にそれは必要ないだろうと思っていた。呼びかけて、慣れないことに困惑の表情を見せはしても、嫌悪の表情は浮かべないのだから、きっと彼女は秀衡のこの思いをきちんと理解して、受け止めてくれる。
「儂は、そなたの父になる」
「はい」
「そなたは、儂の、娘だ」
「はい」
 躊躇いの気配はどうにも拭いきれていなかったが、肯定の返事に不穏な間は置かれなかった。良く似た一面も持っていそうだが、息子よりはよほど素直そうだと微笑みながら、秀衡は続ける。
「親が、子のことを知りたいと思うのは、間違っておるか?」
 問いかけに、娘は息を呑んで大きく目を見開いている。
「そなたは頭が良いな。確かに、そなたは世の娘御らと比べれば、とても風変わりだ。それを恥じらう素振りも、時に必要。じゃが、儂には必要ない」
 見開かれた瞳の奥に、もう自嘲の色は見えない。怯えて、縋って、惑って。ああ可愛い。男親が娘を溺愛するという一般論を老齢にして初めて実感しながら、秀衡は深く深く、笑いかけてやる。
「そんな偽りを必要とするなら、そもそも、そなたを猶子にという話なぞ、受けるはずがなかろうが」


 此度の源氏と平家の諍いが、まさか和議にて終結するなど、秀衡は最後の最後まで予想だにしていなかった。血で血を洗い、いずれは平泉にも累が及ぶだろうと予感していたし、そのために水面下で物資や軍事力強化を進めていた。だが、蓋を開けてみれば、さらにその水面下でまだまだ青二才と思っていた次代の者達が結託し、老獪な各勢力の面々を出し抜いてくれたではないか。
 確かに、そういえばそんな話を聞いた気もする。鎌倉殿の許には異国の邪神がいるという話も、平家が怨霊を従えているという話も、全て荒唐無稽な戯言と切り捨ててしまった。ゆえに意固地にさせてしまったのだろう息子が、けれど律儀にも教えてくれたのに、秀衡はそれを信じられなかったのだ。
 老いたと思ったし、耄碌したと悔いた。時を重ね、経験を積んだことによる自負で盲目になる部分があるのだと、改めて気付かされた。だから、やり直そうと決めたのだ。新しい時代は確かに次代の手で導かれたが、その土台を構築するのに、彼らの手だけでは間に合わない。
「何のために知盛殿がそなたを我が藤原家の猶子にと求められたか、知っておろう?」
「……はい」
 穏やかに問うてやれば、頬を染めて視線を床にさまよわせてしまう。取り繕う表情の間に合わない姿が、実に素直で愛らしい。
「無論、政略的な理由付けもある。じゃが、そなたが必死に偽り続けねばならないような一族に、知盛殿はそなたを託すか?」
 なんとも小狡い搦め手である自覚はあったが、何より有効な一手であるという自負もあった。首まですっかり真っ赤になってしまった様子に、微笑ましさが抑えきれない。


「無理も、遠慮も、偽りも無用じゃ。そなたが誰に謗られることなく知盛殿への想いを成就させられるようにと親子の縁を結んだというに、こうも想いを殺されては、儂は己が不甲斐なくてしょうがない」
 うろうろと落ち着かない視線も、蚊の鳴くような声での意味を成さないうろたえた呟きも、決して見苦しいものではなく、秀衡が求めた中でも最上の反応。どうやらうまくやっていけそうだとの確信を胸に、さてと秀衡は逸れに逸れてしまった話題を本筋へ戻すことにする。
「さあ、話をしようぞ。この父に、そなたのことを教えてくれるな?」
 きっと、今度は自分から口を開いてくれることだろう。くすぐったげにはにかみながらそっと上目遣いに視線を持ち上げ、娘はちょこんと小首を傾げる。
「では、後ほどわたしにも、お話を聞かせてくださいね――父上」
 声は少々上ずっていたが、そのぎこちなさがまた可愛らしい。どうしようもなく表情が弛むのを自覚しながら、手放すのが惜しくてたまらないという思いを必死に殺す近未来を確信し、秀衡はせめて、僅かな親子水入らずの時間を目一杯に堪能することを決意した。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。