朔夜のうさぎは夢を見る

健康であること

 鬼の霍乱、と。その独り言にも等しい感想を思いがけず拾い上げて、重衡は不謹慎にも頬が緩むことを抑えきれなかった。確かに、それは言い得て妙で、かつ何よりも的確な言葉であろう。だって重衡は、これまでこの“義兄”がかくも弱って寝込む姿なぞ、一度とて目にしたことはなかったのだ。
「……おい、お前ら。聞こえてないとでも思ってんのかよ?」
「いや?」
 地を這うような問いも、掠れてしゃがれた声では迫力に欠ける。ああ、本当に弱りきっているのだな、などとぼんやり考えていたから、返答するための間合いはさらりと兄にさらわれた。
「ただ、思ったことをそのままに述べたまでのこと」
「失礼極まりねぇ“弟”だな?」
「それだけ、兄上のことを信じていると……そうは、とっていただけないのか?」
「日頃の生活態度を顧みろ」
「不備なぞ、何ひとつ思い当たらんな」
 くつくつと喉の奥で転がされる笑声は、それでも常のものより穏やかでやわらか。捻くれた兄は兄なりに、この“義兄”を心底気に入り、気遣っているのだ。たぶん。


 発熱ゆえかそれ以外の要因か。頬に血を上らせた“義兄”は、深々と息を吐き出して瞼を落とす。
「なんぞ、入用のものはございますか?」
「優しい弟」
 そういえば自分達は病人の見舞いに訪れたのだった。そう思い出して重衡が問いかければ、間髪置かずに返されるのは真摯な声。遊んでいるのか遊ばれているのか、さてどう切り返したものかと思いを巡らせる刹那のうちに、静寂はよく似た声で埋められる。
「いずれでも、より取り見取り」
「まがいものはいらねぇよ」
 臥せっている割に意外に元気であるらしい“義兄”の声の奥に、けれど隠しきれないのは病床にあるがゆえの心細さか。慰撫する色味の強い兄の声にほんの少しまなじりを下げて、重衡もまた実に悲しげな声で「心外ですね」と混ぜ返す。


 ゆるゆるとのぞく紺碧の双眸は、ぼんやりと涙に潤んでどこか頼りなげ。比較対象が蒲柳の質を抱える兄であるがゆえに、自分や彼は常人よりも丈夫なような気がしていたが、そういうわけでもないのだと気づかされる、瞬間。
「どうぞ、ごゆるりとお休みください。後のことは、我らがしかと請け負いましょうゆえ」
「……悪ぃな、こんな忙しい時期に」
「いいえ、お気になさらず」
 花冷えには少しばかり早いが、梅が終わり桃が過ぎ、桜の蕾の膨らむこの頃は、寒暖の差が激しかった。和議というあまりにも大きすぎる山を越え、張り詰めに張り詰めていた神経が緩んだところを病魔に付け込まれたのだとして、仕方あるまい。
「見舞いの品が、後より届こう」
「………気ぃ遣わせたか?」
「なに、そうたいしたものでもない」
 やんわり微笑む重衡に続けてさらりと嘯く口調は本当に何気なかったが、兄の用立てた“見舞いの品”が、“義兄”にとって実に絶妙なそれであることを、事前に垣間見た重衡は知っている。その“見舞いの品”ゆえに、滋養強壮にと思って重衡が用立てた見舞いの食材が、きっと“義兄”にとってより有益な効能を齎すものへと変貌するだろうことも。


「もし気にかかるというのなら、一日も早く……本復してくれれば、いいさ」
 そうすれば、俺としても面倒が早く片付く。
 笑いながら続けられたからかいの言葉に、真意を汲み取ったのだろう声が呆れを隠そうともせず「もっとやる気出せよ」と呻く。
「では、それは少なくとも将臣殿が本復なさるまでは、兄上が常以上に真摯に政務に取り組まれるということですね」
「ああ、何だ。それなら大歓迎だな」
「まるで、常の俺が政務を蔑にしているような物言い、だな?」
「そうか、心機一転、真面目人間を目指すのか。おい重衡、お前も証人だからな?」
「ええ。しかと伺いました」
 くすくすと、遊んでいることを了解しながらの軽妙なやり取りが、穏やかに場に満ちている。早々に引き揚げて病人を休ませるべきだという思考と、こうして心細さを紛らわせることも必要ではないかという思考が、優しくやわらかく入り乱れている。
「重衡、お前、兄を売るつもりか?」
「とんでもございません。この重衡、知盛兄上が“義兄上”を思われるお心に、いたく感じ入る次第にございます」
「――なれば、その“義兄上”殿を休ませて差し上げてくださいませ」
 そして几帳の向こうから響いてきたのは、きっと重衡の見舞いの品を手にした、兄の“見舞いの品”。きょとんと目を見開く“義兄”を尻目にさっさと腰を上げた実兄の分もさて、自分は事の顛末を見届けようかと、重衡は邪魔にならない、しかし“義兄”の表情が良く見える位置へと膝を使って下がることにした。

Fin.

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