果てぬ白夜の夢見鳥
喪うのかもしれないと、その恐怖が引き金だった。
喪いたくない、護りたい、そのためには力が要る。対峙しているのは人外の存在で、しかもあまりに禍々しく強大な存在。喰われるという、方向性が明確になった恐怖は底知れなかったが、それを凌駕するほどに知盛を喪う可能性への絶望は深かった。
これまで共に駆けた戦場で、決して見ることのなかった光景が視界を真っ赤に染め上げる。無論、傷を負うことなど日常茶飯事だった。血が溢れるのも見たことがあるし、その手当てをするため、間近で生々しい傷口を見たこともある。だが、それとこれとは次元が違った。
あれはあくまで対等な立場であり、同じだけの可能性の許に齎された恐怖だった。戦場においては、誰もが等しく誰かの命を奪う可能性を秘めており、誰かに命を奪われる可能性に曝されている。
それは覚悟の上のことであり、その可能性を左右するべく、策を練り鍛錬を積み、全身全霊を懸けて戦場を駆け抜ける。怖れがないと言えば嘘になるし、いつだって、これが最後になるかもしれないと思って恐くて仕方がなかった。しかし、それ以上に生き抜くことへの決意が固かったし、その決意を揺らがせないことこそが生還への第一歩なのだと教えられた。
けれど、これは違う。対峙するのは、対等な相手ではない。人の力は、あくまで人にしか及ばない。人外のものに対峙するには、人外の力が必要なのだ。
人は、人を超えた力の前ではあまりに無力だ。それは時に天災という形で思い知るし、この世界に迷い込んでから、は病や怪我もまた同じ禍であり、さらには神や妖という理不尽の存在を知った。
後者においては棲み分けによる回避が可能であり、それこそが互いに同じ世界でつつがなく生きるための術なのだとも知った。だから、怨霊を使役する平家にあって怨霊を厭い、その存在をかなしいと認めながらも戦場に及ばせることには終始反対し続ける知盛を、ずっと尊敬していたのだ。
あまりにも鋭く、あまりにも適確にこの世界の本質を理解しながら生きる姿は、彼には視えていないらしい世界の遍く存在から祝されていた。けれども彼はあくまで人であり、そうであるからには人の齎す力によって失われること、天災によって損なわれることは耐えがたくも認めざるを得ない現実であるが、回避でき、回避していた禍が向こうから彼にその魔手を伸ばすことなど、認められようはずがないのだ。
龍神に、神子に、八葉に、そして自分に。あの邪神が手を伸ばすのはわかる。自分達があの邪神と係わりを持ってしまうのは仕方がない。それは、自分達が少なからずあの邪神と同じ領域を有する存在であるから。回避することもあるだろうし、利用しあうことも、牙を剥き合うこともあるだろう。けれど、それはどうしようもないし、対峙できるだけの人外の力を持っているのだから、それでもって何とかすればいい。
だが、知盛は違う。彼は、たまたまそういった存在を間近に見知ってしまっただけの、けれどあくまで人外という枠には一切組み込まれていない、徒人なのだ。
あってはいけない。ありえてはいけない。その思いが、恐怖を、絶望を抑えていたはずの箍を粉微塵に打ち砕く。
腹の底が煮えくり返るような、それは怒りと憎しみをないまぜにした衝動だった。久しぶりに鎌首をもたげる、奥底にしまいこんだはずの自分ではない意識をぼんやりと知覚する。だが、止めようと訴える理性の声は、あまりに激しく暴れまわる絶望の悲鳴に呑まれて消えていく。
許さない、赦さない、ゆるさない。煮えたぎる衝動は、際限なく広がっていく。赦せないのは、では、何だろうか。
かの邪神が赦せない。アレは、巻き込んではならない存在を巻き込んだ。喰らいたいのならば、その餌だけを狩ればいい。なのにどうして彼を害するのだ。
この力がいずれ必要になると、かつて彼はそう言った。“その時”がわからずにいたし、今が“その時”かはわからないが、にとっては今以上に“その時”に該当する瞬間はないと思えた。
そして、怒りは怒りを、憎しみは憎しみを。負の感情は、際限なく周囲の同じ感情を取り込み、膨れ上がっていく。
必要以上に力を使いすぎては自滅する、との冷静な思考は、手に負えないほどの大きさに育ってしまった衝動に圧されて悲鳴を上げる。
この国に在るべきではない異国の邪神に対する、枠を超えた遍く存在の恨みつらみが、の衝動を媒介にして編み上げられていく。
「――!」
周囲で飛び交う声は聞こえている。でも、意味が取れない。呼んでいるのは誰だろう。最も憎い敵は滅した。だけど、憎いのはソレだけだっただろうか。
広く天地を通じて集められた負の衝動が、憎いとひたすらに喚き続ける。憎い憎い、恨めしい、赦せない。長い年月をかけて拡散し、やがて時間がその衝動を磨耗させ、緩やかに龍脈へと還るはずだったあらゆる怨嗟が、という導を得て純化された念の塊へと変容する。
ふと、不明瞭に揺れ続ける視界の中に、は銀色の光を見つけた。感触さえ曖昧な手の中に握られた、それは刃。色かもしれないし、刃であるという認識かもしれなかった。何がきっかけであったかはよくわからなかったが、しかし確かに、はそれをみて自身の状態に悲嘆を覚えたのだ。
こんな風に力に振り回されたくなかった。そのために武術を学んだ。心を鍛えることに努め、力を制御するために器を整えた。自分はヒト。だから、人外の力は必要最低限にしか使わないと決めたし、そのためにあらゆる手を尽くした。そうして己を律そうと足掻き続ける自分のことを、満足そうに見やっては手を貸してくれる人がいた。
嵐の前の静けさのごとく、渦を巻いて噴出すために体の奥底で束ねられる怨嗟と憎悪の渦を、ぼんやりと幻視する。そして思う。もはやまともに機能しない思考回路が、軋みながら動き出す。アレを野放しにする自分では、二度と彼に眠りを預けてもらえない。そんな危険な自分では、彼に再びまみえることさえ叶わない。
なぜなら我が身はヒトならざる力の媒介にして器。人外の力による禍が彼を害することを許せない自分が、禍そのものとなることは認められない。それは、彼を喪うことと同義。
体が動かない。身の内にわだかまる己ではない力が、あまりにも膨大な怨嗟と憎悪に呑まれて闇に堕ちるのを、寸前で繋ぎとめる。神の慈悲は、純然たる力の貸与。力そのものに善悪は存在しない。心情を斟酌する機能など、付加されてはいない。我を忘れて力に怒りと憎悪を叩きつけたことを悔いる暇があるなら、責任をもってこの力を鎮めなくてはならない。
「……は、なれ……て」
近くにいるのは誰だろう。呼んでいるのは誰の声だろう。周囲の様子などまるで把握できはしなかったが、傍にいては巻き込んでしまうことだけは理解できた。力が吹き上げる寸前の、ほんのわずかな空白を衝いて声を絞る。
「離れて――ッ!!」
だが、もう遅い。溢れた力を少しでも抑えつけんと、腕を肩に回すことだけで手一杯。最後の理性と正気を喰い尽くそうとするあまりに深い己の内の闇に慄きながら、は歯を食い縛る。
悪夢のような夜が現実であることを言祝いだ夜は遠くないのに、夢に手が届きそうな今夜が現実であることは悲劇でしかない。縋りつきたいあの約束を、振り払ったのは他ならぬ自分。助けてと叫ぶことさえできずに、はじわじわと侵食してくる無間地獄のような闇の気配を視界から締め出すことを選んだ。
果てぬ白夜の夢見鳥
(そして、さあ、わたしは夢とも現とも知れぬ奈落の底で、)
(あなたの腕を振り払った、あの、現実でしかない悪夢を悔い続ける、)
(無間地獄に出逢うのでしょう)
Fin.