天ツ風
旅の埃にまみれた身ゆえに東寺までわざわざ足を運んだという話は聞いていたが、別に気にする由もない。この二月ほどずっと足の遠のいていた局にふらりと踏み入れば、足の遠のいていた原因が払拭されていることが知れる。
ついと口の端を吊り上げ、満足感に息を吐き。次いで思考はこの場所で快適に過ごすために不足しているものを即座に弾き出す。無論、あの娘こそは香袋にして温石のようなものであるのだが、それにしても人気のなかったこの部屋は寒い。
「誰ぞ」
「はっ」
声を上げれば、すぐさま返るのは知盛にとってもっとも馴染み深い声のうちのひとつ。安芸と同じく、かろうじてとはいえ生まれる前からの付き合いになるこの男もまた、自分があの娘へ向ける欲の意味を、自覚よりも先に察していた節がある。
「火桶をここに」
「かしこまりまして」
埃を払う程度の手入れはさせていたため、居座る分に不自由はない。仄かな笑みと安堵の気配の滲むいらえの言葉は、すぐさま遠のく足音に取って代わる。
察するも望むもお前の勝手。そう思うから、知盛は気にしない。彼らは確かにその洞察に基づく思いを載せた視線を送ってはくるが、手出しや口出しを控える分別があり、求めに応じる用意がある。それさえわかっていれば、知盛としては十分なのだ。
かくしてすぐさま用立てられた火桶にて暖を取り、もはや身に馴染んでしまった、かぎなれた懐かしき香りが再び仄かに漂うようになった局で、ぼんやりと見やるは畳まれた白き衣。置き土産にした衣を纏い、そして娘は戻ってきた。知盛のそれと知らぬはずのない衣をその身に纏って、だ。
そこにさて、深い意味があるのかないのか。あいにく知盛には察する術がない。彼女は物を知ってはいるがわかってはおらず、老成しているくせに妙に初心。この世のしがらみを解し、その内で生きているようでありつつ、月の都での在り方が拭い去れていない。
身の丈に合わせて着つけてはいたが、丈があっていないのは明白だった。その、合わぬ大きさの男物の衣を纏う姿が、どれほど深い意味を伴って知盛の目に映り、ゆるゆると灯しながらも制御し続ける情欲の焔を煽ったのか、彼女はきっと知る由もない。知らせておらぬのだから、むしろ知ったとするなら彼女にそれを教えた輩を八つ裂きにしてしまいたいという欲求こそが湧いただろうことをも、自覚している。
とりとめのない思索は、とつと響く静かな足音によって遮られた。相変わらずの言葉遊びに、気配りに、ぬくもりに、香りに。満たされていく己を、知る。
ただ胸の奥底に沈めておくつもりだった真情さえ吐き出し、裏切られることで切り捨てることを夢想する。その可能性をこそ裏切って、共に修羅の道さえ往くのだと言い放つ変わらぬ強さと眩さに、確かな安堵と更なる欲を思い知る。
やはり、やはり自分はお前が欲しい。
手放すという慈悲の心など、抱けようはずもないほどに。
強く、潔く、欲深く、ゆえに美しい。
かつて神に告げられた言葉の意味を、時々知盛は感慨深く思い出す。思うように、悔いを抱え、引き返せぬただひとつの道を這ってでも生きる姿は、惨めながらも凄艶なる輝きなのだと。きっとそれを己は、この娘が折に触れて己に見せつけるこの姿を通じてこそ見知っているのだろうと。
「そういえば、知盛殿。事後承諾となってしまいましたが、厳島に置いていかれました衣を、この旅路にてお借りいたしました」
「ああ……見れば、知れる」
これまで一度として使ったことのなかった呼びかけと、揶揄への軽やかな言葉遊びをもって終幕となった会話の後の静寂の底から、娘はふわりと声を放った。重くはなりすぎぬ、けれど決して軽くもない声。後はもはや眠るだけであるこの夜闇に、これ以上の重みと湿り気を齎すつもりは互いにない。だから、いったいどのような心持でいたのかと興をそそられながらも、知盛もまた混ぜ返す言葉で応じる。
「手入れは怠りませんでしたので、埃を落とし次第、櫃にお戻しして――」
「いらぬ」
どうやら彼女はわかっていなかったか、あるいはわからないふりをすることにしたらしい。そうはさせるかと言葉を遮り、振り返ろうとして失敗した半端な角度の頤を指先でなぞりながら、知盛は告げる。
「お前に、やろう」
ぴくりと、腕の中で体が小さく跳ねる。その意味にはまだ考えを及ばせず、腕に微かに力を篭めて決して頑強とはいえない体を掻き抱きながら、繋ぐ。
「この先、いかな局面にてかように役立つかも、知れんしな」
神に捧ぐ舞の献上において纏った衣は、神の力を宿すお前の方がふさわしい。笑いつつ、本音と自嘲と揶揄を織り交ぜて逃げ道を塞いでやれば、戸惑いの気配を見せながらもほんのり耳の先を赤く染めて「では、お言葉に甘えることといたします」と囁くように声を落とす。
以前に比べれば色を持ってきた声は、きっと男女が衣の遣り取りをすることの意味を正しく理解していたからだろう。翻れば、彼女の中に自分を"男"として見る心が芽生え、自覚しはじめているからだ。
なればやはり、わからないふりなどさせてはやらない。そのままもっと堕ちてこいと、胸の中で知盛は呼ぶ。
時を経るごとに思いを深めているのは明白。だから、さあ、その思いに主従でも刃と鞘でもなく、男女という色をつけた、このかいなの中へ。
じわりと滲む思いには、これまでいかな女に対しても湧かなんだ切なさが混じっており、そんな己を知盛は嗤い、けれど認めて受け入れる。花の色が移り変わるように、ヒトもまた移ろうもの。譲れぬもの、揺らがせてはならぬものさえしかと保っていられるなら、移ろう己の有様は、この退屈な日々をしのぐ格好の材料のひとつにすぎない。
「まるで、甘やかな……毒、だな」
「知盛殿?」
思わず唇をすり抜けた言葉は届かなかったらしいが、声は届いていたらしい。呼びかける声に「いや」と返し、それから胸の隅で眠っていた別の欲求を言葉に換える。
「久方ぶりに、お前の酌で酒が飲みたい」
「心得ました」
告げながらゆるりと肩口に鼻筋を埋めるも、娘はあっさりと求めに肯定の言葉を返すと、するりと腕から抜け出して未練もなく簀子縁へと消えていく。
「かくな衣の一枚では、まだ、お前を縛り付けるには足りぬ……か」
夜闇に溶けた呟きが自嘲ではなくやわらな呆れに濡れていたその矛先を、けれど知盛は溜息ひとつでしばらく考えずにおくことに決めた。
(いくらだとて、道を塞ぎ、枷を用立てるさ)
(いつか、お前の心が俺の許に堕ちてくるまで)
天ツ風
Fin.