朔夜のうさぎは夢を見る

午前三時の憂愁

 風花というものを初めて見たのは、もう遠く過ぎ去ってしまった未来の、かつての初詣においてだった。薄曇りの空から、ひらり、はらりと雪が舞う。年の初めの神域にあっての出来事で、いささか興奮したことも覚えている。そして何より、寒くて仕方なくて、家族と共に、振る舞い酒として用意されていた温かな甘酒を飲んだことを、覚えている。
 あの頃は、何もかもが真綿にくるまれたように幸せで、けれどその分、曖昧だった。
 与えられるばかりの頃にはわからずにいて、今になってひしひしと痛感することは山ほどある。それが、年経るという事実によるものなのか、環境の変化によるものなのか、には確かめる術がない。ただ、すべてを受け止めるのみだ。
 明け方を待たずに目が覚めた原因は、寒さだった。
 衣をいくら被ろうが、戸をいくら閉ざそうが、冬は寒い。それはもう、かつての未来とは比べものにならないほどに。おまけに、京の寒さはことさら骨身に沁みるとは思う。地面からじわじわと体を這い上がり、全身を絡め取ってしまうのだ。こればかりは耐えるしかなく、そして、残念なことにいまだに慣れる気配がない。
 寝直そうかと考えて、けれどは諦めた。寒くて寒くて、もう眠気はどこへやら。こんな日に限って、共寝の相手も不在だった。
 掛布代わりの衣をそのまま肩にかけ、冷え切った床板に震えながら足をつける。ひたひたと足を進め、覚悟と共に枢戸を潜れば、月明かりが煌々と。どうやら、起き出すには早すぎたらしい。なんとかして寝直さねばならないのだが、そんなことよりずっとずっと気にかかることを見つけてしまった。
「風花……」
 晴れ渡った夜空は薄黄色の月を抱き、星が幾千幾万と瞬きを放つ。冬のきんと澄んだ空気が、より一層、すべての光を煌めかせる。そして、そんな雲ひとつない空を、雪が舞う。
 原理は知っていた。だからこそ、これが風花だとすぐにわかった。それにしても、記憶にあるあの風花と、こんなにも違って見えるものなのか。晴れた空から、雪が降る。この矛盾した光景の、なんと美しいことか。
 きしり、と、床板が鳴った。微かな音だったが、雪が降るのみの美しく静かな光景とはあまりにも不釣り合いで、だからこそすぐに気づいてしまった。けれど、振り返りはしない。きっと、そんなことは望んでいない。望むなら、もっとわかりやすく足音も衣擦れの音も、立てればいいだけの話。
「体を冷やすぞ」
「今宵は冷えますね」
「わかっているなら、もう少し重ねておけ」
「明日にでも、安芸殿にお願いして、古い衣を譲っていただきます」
「手持ちはないのか?」
「足りると思って、これ以上はいただいていないのです」
 あからさまに呆れた溜め息が返されたが、反論はぐっと飲み込んでおく。今の手持ちだけで季節を越すつもりはさすがになかったが、あまり早くに衣を増やしても後が辛かろうと、今はまだ我慢していたのだ。去年は、近くの局にも女房達がいて、恐らくは人の寄り集まる熱によってなんとか乗り切れた。その前は寺にいて、体温の高い子供達と寄り添いあって寝ていたから、少ない衣でもなんとか凌いでいた。そして、今年。ひょんなことから寝所を移し、人の少ない西の対の、さらに隅の部屋で眠る日々。その事実を、読み誤っていたのは確かだろう。近くに誰もいないと、冬はこんなにも寒い。
「……お前が冷えると、俺も冷える」
 だから寄り添うのだろうか。だとすれば、それはあまりに平和で、和やかで、原始的な理由だ。振り払う理由など、まったくもって見出せない。
 緩やかに背後から腕を回され、袖の中に包み込まれた。そっと触れた頬は、お互いに切れそうなほどに冷たい。
 けれど、部屋に戻るようにと急かされはしなかったし、もう寝ようと促されもしなかった。気づけば大分数を減らした空を舞う雪片が消えてなくなるまで、あと少しだけ、二人は熱を分けあいながら寄り添うのだろう。



(それは、夢のような、現に見る幻の時間だった)


Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。