ものもらいのその後
「――と、そういうことなら、あったが」
「どう考えてもそれが原因ですね」
京は六条櫛笥小路にある梶原邸の一室にて、実に不思議な取り合わせの対談がもたれたのは、源平両家による和議が成立してから一月と少しを数えたある日の午後のことだった。ゆったりとした口調は、決して周囲を苛立たせるためのわざとのものではなく、彼の個性である。そう理解してしまえば気に留めることもなく真っ直ぐに相対せるのが譲の美点であった。良くも悪くも個性に満ち溢れた兄と幼馴染を持ったがゆえの忍耐は、ありとあらゆる場面でおいしく発揮される。
京の北に社を持つ水神のお茶目な心配りによって、思わぬ幼かりし姿を目の当たりにした、ということも功を奏しているのかもしれない。とにかく、譲は梶原邸の一室にて、昼前に弁慶を探して駆け込んできたに懇願されたとおり、こうして探しにやってきた知盛を相手取っている。
先に五条大橋に寄ってきたのだというは、頭から被った袿の下から目許に包帯を巻いているという衝撃的な姿を披露してくれた。何があったかはわからなかったが、一大事とばかりに大慌てで六条堀川に走ってくれた望美とは反対に、厨から水を汲んできた譲は弁慶を探すのと同じか、あるいはもっと大切な願いがあると真剣な表情で頼み込まれたのだ。いわく、知盛が来ても自分のことは隠してほしい、と。
彼らに関する詳しい事情は知らない譲だったが、現代にいた時に読んだ平家物語の知識なら持ち合わせている。熊野で和議の話し合いをもった場にも居合わせたし、荼吉尼天に関するごたごたでも顔をあわせている。加えてつい先日、随分と可愛らしかった幼少期の姿も見た。
実際の合戦と呼ばれるものに参加したのは三草山だけであり、それ以外のことはわからない。だから、譲には九郎や弁慶のようにその知略と武勇への畏怖が拭えない感覚もわからなければ、将臣や敦盛のようにとの関係をことさら守ろうとする感慨もわからない。ただ、彼が彼女を想う気持ちが深く、かけがえがなく、尊いものであることは理解しているつもりだった。
どうやら譲の知る史実とかなり様相を異にしているこの世界の時代の立役者達は、史実よりも年齢がずいぶんと若いだけあり、妻帯者がいない点が一見ないように見えた数少ない共通項だった。それでも十分過ぎるほど婚期は逃しつつあるようだった彼らの中で、最も早く妻帯者となるだろう、と目していたのが知盛なのだ。
聞けば随分といい感じに線の切れた部分があるようだが、兄への扱いからも兄からの扱いからも、彼が根本的に“善い”人間であることは存分に察せる。想い過ぎるがゆえにすれ違う様を見せつけるほどに彼女のことを思っているのは明らかだったし、ヒノエが一目置いているようだったことは印象的だった。それに、平家物語でも“平知盛”は愛妻家であり、子供を深く愛する良い父であったと語られている。
歴史は塗り替えられたが、きっとこの世界の“平知盛”もそうなのだろうと、そう、漠然と思っていたのだが、未来の細君かと思われた娘は、本当に真剣な様子で知盛に対する面会謝絶を宣言したのだ。
荼吉尼天に対峙したあの夜を除き、譲をはじめ、梶原邸に居合わせた面々はのこれほど強硬な態度を見たことがなかった。まして、礼節をわきまえていると無言のうちにも立ち居振る舞いで雄弁に語る彼女が、先触れの使者も出さず、単身で訪ねてくることからして異常。そう思い至ってしまえば、望美と朔は完全にの味方であり、とりあえずとばかりに邸の奥に引っ込んで話し合いの場を持っている。
そうして残された譲と弁慶が顔を見合わせるところに、おりよく話題に上っていた当人が登場し、先の譲の発言へと至るのだ。
「原因? なぜ俺が、アレに避けられることに繋がる?」
六条堀川からやってきた弁慶の見立てによると、は目に腫れ物ができてしまっているらしい。薬をつけて安静にしていれば治ると言っていたし、当人としても経験はあるとのこと。とにかく自分の伝手で薬を手に入れたかったがための訪問らしいのだが、あろうことか主たる知盛には言付けさえ残さずに出てきたのだろう。
達が奥に引っ込んでからそう間を置かず、門を警護する衛士達をその眼力と立場とで黙らせて乗り込んできた時にはあんなにも殺気立っていたというのに、彼女の無事を知らされるやすとんと気配を落ち着け、事態の全容把握のためにうっかり昔語りをしてしまうほどに寛いでいる。
かくな態度を取るからには原因があるのだろう。問答無用で連れ帰るつもりだったらしい男を何とか引き止め、心当たりはないかと問うてみれば似たような病にならば覚えがあると言う。では語ってくれと乞えば素直に記憶を手繰ってくれたのだが、どうしたってのろけ話を聞いているような気持ちになる。
「恐らく同じ症状でしょうけどね。だとしたら、知盛殿はさんをどうなさいますか?」
「薬があれば治るのだろう? ならば、同じように治るまで手元に置くまでだ」
「だから、それが原因ですってば」
けろりと言ってのける知盛に、譲はどうしてそれがわからないのかとこめかみを押さえる。
「さんはきっと、それが嫌なんですよ」
「だが、女房に手当てをさせるにはいささか刺激が強すぎよう」
「いや、まあ確かに、それも一因だとは思うんですけど」
浮名を派手に流していた、という話は将臣からも敦盛からもヒノエからも弁慶からも聞いている。ついでに、九郎と景時も知っていたし、譲の目から見てもいかにも女慣れしていそうだと思う。だからこそ、譲でも察しのつく「好いた相手には惨めな姿をみせたくない」という女心がわからないはずもなかろうに、知盛はいっそあどけないほどの無防備な様子で首を傾げている。
「女性は、いつだって一番綺麗な姿を見せていたいと思うものなんですよ」
「見せかけなぞ、所詮移ろうものではないか」
見かねたように口をはさんだ弁慶に、しかし知盛は何を馬鹿なことを、と言わんばかりの表情で切り返す。
「傷があったとて、気にはならん。俺は見かけを評したのではないと、それはアレも知っている」
「なんだかとんでもない殺し文句を聞いた気もしますが、それはぜひ、ご当人に言って差し上げてくださいね」
つまり、外見が変わろうが心移りなどするかという宣言である。しみじみ嘯く弁慶をちらと見やり、そして知盛は譲へと視線を移す。
「コレが一因だというのなら、それ以外の原因とはなんだ?」
知盛の中では、既に先ほどの件は処理済として認識されているのだろう。ある意味理想的な解決手段ではあるが、それを納得させるまでが難しいのではなかろうかと。他人事ながら少しばかり心配をして、そしてそれを胸の隅に追いやって、仕方がないので譲は己の推理を口にする。
「予想できる原因は二つあります。ひとつは、それでまたあなたが物忌みに入ってしまうことは都合が悪いということ。もうひとつは、あなたが見えないところにいるのが嫌なんだろうということ、ですね」
まあ、あたらずも遠からずだろうとは思っている。どちらが主要因になるかによっては大分色味が変化するのだが、譲にとって、それは比較的どうでもいいことである。
はたはたと、長く生え揃った銀の睫が上下する。垣間見た片手で足りるほどの機会の中で、譲は知盛に対して鋭くそして儚いという印象を抱いていた。凛と背筋の伸びた、信念を譲らず真っ直ぐに生きている、どこか不器用な人。あるいは、孤高という表現が似合うのだろう。
だからこそ、を隣に据えて穏やかに微笑む姿を見た時には驚いたし、彼女にまつわるこんなちょっとしたどたばた騒ぎに巻き込まれ、殺気立ったりのろけたりしている姿には少しだけ安堵する。あんなにも浮世離れした、俗世を超えてどこかに消えてしまいそうだった人が、きちんとこの日常の中で生きていることを感じられて、嬉しくなる。
「……物忌みが都合が悪い、ということは、わかる。だが、ソレはなぜだ?」
どうやら、言われた言葉の意味が理解しきれず、虚を衝かれたがための表情だったらしい。意外にかわいらしい貌もするのだな、と、将臣辺りが聞けば腹を抱えて爆笑するか真っ青になって心配しそうなことを脳裏でぼんやり考えながら、譲は本当にわかっていないらしい相手に逆に問い返す。
「じゃあ、あなたが同じように片目を塞いだ時、さんが見えないことは嫌じゃないんですか?」
「そんなことにはならん」
「たとえ話ですってば」
この重要な時期に、平家の実質的な総領である知盛が物忌みなどというふざけた理由で長期にわたって表舞台から姿を消すのは良くない。それは譲にもわかるし、知盛にもすぐに察せたのだろう。話を聞くに、どうやら知盛は本気で病や怪我が目に見えない妖の類によるものだと信じている人種ではないらしい。
先に聞いた話のあれは、穢れに触れたのなんだのというよりも、彼女を気遣って手当てをするために休みを取ったという意味合いが強いと判じている。だからこそ、この時期にまさか同じことをするとは譲も考えていない。ただ、珍しくも「寂しい」などとかわいらしいことを言ってくれたと、そうやわらかな声で嘯くほどには彼女に構ってほしいらしい彼が、からかったり遊んだり、そういう他愛のない目的であえて見えない位置に立ちたがるだろうこともまた、なんとなく察せるのだ。
気持ちがわからない、とは言わない。確かに、かつての奇妙な共同生活の中で凛とした彼女の垣間見せた脆い側面は、恋心など微塵も抱いていない譲の目にも庇護欲を掻き立てるものがあった。惚れた相手のそれ、まして知盛の場合は長い片恋を経ての成就だというのだから、性格もあいまって、たっぷり楽しみたいと願うのは無理からぬことだろう。
だからこそ、譲は知盛がその問いに「嫌だ」と答えてくれるのを期待していたのに、返ってきたのはまったく反対の答えだった。
「片眼が使えぬのなら、そちらにこそアレを置くのは当然だろう」
けろりと、またしても何を馬鹿なことを、と言わんばかりの表情で言ってのけた知盛に、逆に譲は目を見開いて声を失ってしまうし、弁慶は愉しそうに口の端を吊り上げている。
「片眼が使えぬということは、それだけ死角が広いということ。なれば、そこには己の命を託すに値するものを置くのは当然のこと……違うか?」
いかにも物騒な発想はなるほど知盛が源氏の兵に平家の鬼神と恐れられていたことを納得させるに足るものだったが、聞かされた譲は、話が思いがけない方向に転がっているような気がしてならない。
「俺にとって、それはアレだ。アレ以外は、誰も使えぬ目の側になど立たせはせん」
「……じゃあ、もしかしてさんがうっかり寂しいと口走ってしまうぐらい視界に入らないようにしてたのは、意地悪とかじゃないんですか?」
「………なんだ。アレは、まさかそのように馬鹿げたことを考えていたのか」
彼女だけには己の死角を無防備に預けられるのだと、そう言い放った男は、つい問い返した譲の発言内容から、どうやらの心理まで推し量ったらしい。呆れの色濃い溜め息を深々と吐き出し、それから「違う」ときっぱり否定を返してくれる。
「立ち上がるのにもいちいちふらつくほど頼りなかったのだぞ? あのまま死角を放置しておけば、部屋に閉じ込めておいたところで、どこでどのような傷を負うか、知れたものではない」
「まあ、両目が使えないと、距離感も掴めませんしね。見えていない部分をどなたかに守っていただければ、随分とお心強いことでしょう」
もっとも、それをそれと知らせていなければ、ただの意地悪にすぎませんが。そう言葉を引き取った弁慶がにっこりと意味深げに笑う。
笑い、そのままついといたずらげな視線が振り返ったのを視界の隅に捉え、譲もまたそちらを振り返る。部屋の隅にあたる柱の脇には、御簾に映りこむ細身の影がたたずんでいる。
「では、知盛殿はさんをお連れになられても、物忌みには入らずお勤めに励まれて、きちんとご本人にご説明申し上げた上でその死角を預かられると、そういうことでよろしいですか?」
「神子殿にお伝えいただくだけでは足りぬというのなら、じっくりと、お分かりいただけるまで重ねるまでのこと」
言ってにったりと口の端を持ち上げた知盛の深紫の視線もまた、愉しげに細められて部屋の隅へと向かう。途端に、びくりと跳ねた影が小さな足音を立てて消えていくのを見送り、知盛は喉の奥でくつくつと笑いを転がしている。
「では、僕は薬を取ってきますので」
「ああ。……世話をかけたな」
「いいえ。これが僕の本職ですからね」
もはや交渉は成立済み。これ以上が渋ることはないだろうと踏んだのか、手当てに必要な薬をと腰を上げた弁慶に、知盛は思いがけず穏やかな微笑を瞳の奥に湛えてやわらにねぎらう。それは譲にとっても驚くほどやわらかな声だったが、弁慶は虚を衝かれたように目を見開き、そして負けないほど優しく笑ってするりと踵を返す。
誰に聞いても随分といい感じに線の切れた部分があると言うし、掴み所のない、よくわからない相手だという人物観はこの短い対談の中でより強固なものになった。だが、やはり変わらず思うのだ。きっと彼は本当に“善い”人間で、彼女を思う気持ちの深さもかけがえのなさも尊さも、まったく裏切られることはなかったと。
「余計なお世話かもしれませんけど」
だから、譲はふと脳裏に浮かんできた言葉を、告げてみることにする。
「さんのあの目、俺達の世界では結構有名で、まあ、ありふれた病気みたいなものなんです」
症状を聞くに、恐らくあれはものもらいだろう。抗生物質の存在しないこの世界では、清潔にして、炎症に効くと思われる薬草を使い、あとは自然治癒を待つしかない。だが、再発防止のための助言は、世界を超えても同じである。
「あれは誰でもなりうるもので、免疫力――体や心が弱ったり疲れたりして、病気に対しての抵抗力が弱っていると発症する、そういうものです」
「有川弟は、博識なことだな」
「弟じゃなくて、譲です」
感心しているのかからかっているのか、真意の読めない合いの手に律儀に返し、譲は続ける。
「だから、しっかり栄養をとって、ちゃんと寝て、心身を元気に保つのが一番の治療だし、一番の予防だそうですよ」
「栄養……ね」
なぜそのフレーズの中で真っ先にそこに反応するのかはわからなかったが、繰り返したということは、それなりに譲の発言を聞き入れるつもりになったということだろう。そう思い返してみれば、この数ヶ月のバタバタで疲れ果て、疲労がピークに達したのが彼女の発症の原因に思えてならない。そして、目の前のこの男は、きっとそれを正しく理解してきちんと手を打つことだろう。
「サンキュ、譲」
ゆったりとした低い声が、実に流暢にカタカナを発音する。史書にも出てくる有名人物がそんな言葉を使う原因は一人しか思いつかなかったが、呆れだの怒りだのよりも、なんだかどうしようもない苦笑が浮かんできて、譲は愉しげに笑んでいる深紫の瞳を見やると、衝動に任せてくしゃりと破顔して「どういたしまして」とだけ返しておいた。
Fin.