格子のない檻
せっせと指先を細かく動かし、まさに上達部としてのこだわりらしきものを余さず発揮している知盛は、そんな場面においては珍しく非常に生き生きした様子だった。口許は楽しそうにやわらかく綻び、真剣な光を湛える双眼さえ艶やかに笑んでいる。
「兄上、お邪魔いたしますよ……と、おや」
廊を滑る衣擦れの音の主の来訪は、無論あらかじめ知らせを受けている。だから中断しようとは言ったのだが、構わないと知盛はとりあってくれなかったのだ。
「何をなさっておいでで?」
「見てのとおりだが?」
「ええ、確かに、ある程度はわかりますが」
絡げられた御簾の向こうで足を止め、目の前の光景に呆れているのか和んでいるのか、曖昧に笑って重衡が小首を傾げている。
「何がどうしてかくなことに?」
「コレからの、祝いと言うのでな」
「よもや、御髪を?」
「削ぎはせんぞ」
そしてに会話への参加権など存在しない。
「では、ただ梳いておられるだけと?」
「それだけで終わらせるつもりはないがな」
のらりくらりと質問をはぐらかしているような印象も受けるが、これでいて知盛が実に生真面目に返答しているのだとは知っている。ただ、圧倒的に説明のための文言が不足しており、当人がそのことに無頓着に過ぎるというだけで。
しばし何か考えを巡らせる様子を滲ませていた重衡は、ちらと流された知盛の視線を受けて小さな会釈の後に膝を折った。
「お邪魔いたしますよ」
「見ていても構わんが、しばらくは相手にせんぞ」
「急ぎの用件と申しますれば?」
「お前に委譲する」
つれない返答はにべもなく。さすがにいたたまれなくなってちらと視線を持ち上げるだったが、頭を動かすなと言われているため、視界の隅にぼんやりと姿を捉えることしかできない。
「では、とりあえずそのまま、お耳だけお貸しください」
「何だ?」
時間帯のせいか、部屋の向きのせいか。半身のみを陽光に染めた姿は、影に呑まれた半身と相まってどこか幻想的だった。笑っていることは声から判じられる。けれど表情の委細がわからない。穏やかに、やわらかく。目の前で展開しているこの、重衡にとってはどこまでも非常識で珍妙だろう様子さえ包み込むような気配があまりにも優しくて、はなんだか切なくなる。
「胡蝶殿にお付き合いいただいているのは、兄上の“誕生日”の件にございますね?」
「進物なぞ用立てておらず、とっさに出せるものもないと言うのでな」
「かくなわがままなぞ申されますな」
いい加減に目の周りの筋肉が疲れてきたため、諦めて視線を正面に戻したところで響いたのは気安い苦笑。こういう会話を耳にする時、は知盛と重衡の間に横たわる絶対の信頼と絆を、素直に羨ましいと感じる。
「何より、この状況を兄上は楽しんでおいででしょう?」
「ああ……。楽しいから、な」
くっくと喉の奥で笑声を転がしながら、知盛の手の動きは緩まない。控えていた別の女房から何やら壺を受け取り、飽くことなく髪を梳き続けていた櫛の歯をその中に浸す。
広がる香りは甘いものであり、壺の中身がどうやら手の込んだ逸品であるらしいことは明白だった。思わぬ小物の出現に肩を小さく跳ねさせたは、その様子を目敏く見咎めたらしい重衡の隠さぬ笑声に、つい眉間に皺を刻んでしまう。
丁寧に、一筋ごとに掬い上げては梳き流される髪から香りが燻り、満足げに知盛が気配で笑うのを感じ取る。
「今夜は空いていらっしゃいますか?」
「特に、出かけるつもりはないが」
唐突に引き戻された話題に、知盛はあくまでけろりと応じる。宴席に招かれているという話は聞いていない。なれば、出かけるか否か、それは知盛の心ひとつで決されること。今宵はいずこかの花の褥に酔いに行くつもりはないのかと、悲しいかなすっかりこの世界の色恋の常識が馴染んでしまったは、そんなあけすけな感想を胸中でごちる。
「では、酒宴なぞいかがでしょうか。将臣殿が、ぜひに祝いをと申されまして」
「祝いと言い切るに値するほどの、美味い酒に当てがあるのか?」
「なければ申し出たりはしないとのことでしたが?」
「道理」
ぽんぽんと言葉を軽やかに投げあいながらも手の動きは止めず、一通り梳き終わったところで知盛は今度は得物を櫛から筆へと持ちかえた。そして、に向かって「こちらを向け」とだけ指示を寄越す。
「して、いったい何をしておいでなのです?」
重衡が目的としていたのは今宵の約束を取り付けることだったのだろう。日が沈んでから自分の邸で催そうと将臣が計画しているのだと付け加え、ずるずると裾を引きずりながら体の向きを変えるの様子を興味深げに眺めている。
「彩った姿を、見てみたかった」
返答は実に簡潔で単純で、はそれが紛れもない真理であることを知っていた。
誕生日という祝いがあるそうだな。有川に聞いた。なんぞ祝いの品を贈るのが慣例と聞いたが、お前、そういったものに心当たりはなかろう? ゆえ、お前の時間を寄越せ。
それは選択権なぞ欠片も許されていない命令であり、別に知盛の誕生日にかこつけなくとも、が決して断るはずのない内容だった。拾われた身も、女房としての立場も。知盛とが過ごす時間に、公私の別などないに等しい。
の持ち物は知盛のもの。
の自由は知盛の手の内。
の時間は、知盛の時間。
その制限を卑下はしない。嘆きもしない。それが現実であり事実であり、主従関係を敷くにあたって打ち立てられた契約だ。代わりには独力では持ちえないものを与えられ、安寧を保証された限りある自由の中に憩い、自力では確保しえなかったあたたかな時間を送れている。そのことを、知っている。
渡せるものなど思いつくはずもない。時間を望むならいくらでも。そう応えて、はそれこそ余すことなく時間を知盛の自由にさせるために、常の務めを一日休ませてもらえるよう安芸に話を通しておいた。日頃の務めも、すなわち知盛のために捧げられた時間。けれど、今回の言いつけの示す「時間を寄越せ」との言葉の意味は、それを意味してはいないと汲んだのだ。
かくして丸一日分の時間を綺麗さっぱり明け渡してみれば、朝はまっとうな時間から起き出してああでもない、こうでもないと襲の色を試された。無論の手持ちの衣装でなど足りるわけもなく、邸の女房から借り受けたものもあれば、知盛自身の衣装も持ち出された。散々に上等な衣に包まれて過ごした後、ようやく満足したかと思えばまだ足りないと髪をいじり、果てはこうして化粧までされている。
ひどく真剣な様子で間近から顔を覗きこまれ、何も感じずにいられるほどは不感症ではない。整った顔立ちは、ただでさえ感嘆せざるをえない対象なのだ。それを間近で見せつけられれば、他意などないと知っていても頬に血が上るし、どこを見ていればいいのかがわからなくなる。
「……動くな」
ゆらゆらと視線をさまよわせれば、細かく首が揺れてしまう。それが不愉快だったのだろう。じとりと低い声で命じながら、白粉を薄く薄く頬から額へと塗っていた筆を握るのとは反対の指先が顔の向きを固定する。
「瞼を下ろしていろ」
次いで降ってきた命令はにしてみればありがたい限りであり、視線を揺らす必要がなくなれば首も動かない。そして代わりに鋭敏になった触覚と嗅覚が筆先のあまりに優しい動きやら正面から煙る香りをまざまざと伝えてきて、やはり心臓が必要以上に早鐘を打つのを止められずにいる。
「さすがは兄上」
粉をはたき終わったのか、触れていた体温が離れてしばしの時間を置く。それからおもむろに顎を掬われて唇を指が二、三度往復した感触の後、何も映さぬ視界の向こうから響いたのは重衡の感心の声。
顎は固定されたまま、目を開けていいとの指示もないということは、きっと知盛は自分の作り上げた作品を吟味しているのだろう。元の造形をあれこれ言われては身も蓋もないが、せめては知盛が告げたとおり、今の自分がわずかにでも華やかに、艶やかに、彩られた姿となってその目を満足せしめていればいいとは願う。
「もう、いいぞ」
指先での拘束が外されると同時に、間近に感じていた香りが遠くなる。そして出された許可にが視界を求めれば、いまだどこか真面目な顔つきの知盛に何かを渡された顔馴染みの女房が丁寧に一礼して腰を上げるところ。
「重衡」
「はい」
「日が沈んでより、向かおう。……それで、いいな?」
「ええ」
ひたとを頭のてっぺんから膝の上に揃えた爪の先、座しているため床に近いところまで降りている髪の先まで観察してから、知盛はわずかに視線を流した。交わされる会話は過ぎるほどに簡潔。そして、いささか言葉の足りない会話でも、重衡が知盛の意を汲み誤ることはない。
丁寧な、流麗な所作でひとつ礼を残し、衣擦れの音だけを供に腰を上げるその挙動のすべてが洗練されつくしている。ここで体の向きをずらせば知盛にぶつかりかねないが、けれどまさか一介の女房が本三位中将の退室を頭を上げたまま見送るわけにはいかない。なんとか上体を捻ることで振り返り、軽く指を床に置いて腰を折れば、艶やかな笑声がいとまの挨拶をその後頭部に降らせる。
「それまでは、あなたが兄上をしかと祝ってさしあげるのですよ?」
「僭越ながら」
「では、兄上。後ほど」
「ああ」
そのまま衣擦れの音が遠ざかるまでじっと腰を折っていたは、そろそろいいかと判じて姿勢を戻すよりも早く、上体を引きあげられる。そのまま間髪入れずにずいと顔を引き寄せられ、顎を固定していつの間にとりだしたのか、懐紙で唇をぐいぐいと拭われる。
重衡がさすがと言ってくれたからには、多分に社交辞令が混じっていたとしても、決して悪趣味な組み合わせではなかっただろう。そもそも、は知盛が非常に優れた美的感覚の持ち主であることを知っている。だが、その知盛が、自身で選んで差した紅を否定して、置き去りにされていた化粧箱からどうやらまた別のものを選び出すのだ。
拭われたせいで少し荒れた感のある唇を、ちろりと舐めることで湿した指先がそっとなぞる。そのまま指先は新たな紅を掬い取り、改めての唇を辿っていった。
「……ああ、」
吐息交じりの、それは得心の声。先と同じように一旦顔を引き離し、顎を固定したままじっとを見やってから、知盛は実に満足そうに瞳を細めた。
「こちらの方が、似合うな」
それから指先に残った紅を先の懐紙で拭い去り、蓋を閉めた小振りながらも豪奢な器をの前に押しやる。
「次からは、装う際にはそれを使え」
「……くださるのですか?」
「俺は使わん」
「それは、そうでしょうけれど」
誕生日だから祝え。そう言われてはじまったはずの一日だというのに、自分がこうして物を与えられては本末転倒なのではないか、と。心遣いはありがたいのだが、何とも複雑な思いでがつい表情を曇らせれば、知盛は気にした風もなくあっさりと口の端を吊り上げる。
「お前が彩るのは、いったい誰のためだ?」
問いの答えはただひとつ。と知盛の過ごす時間に、公私の別などないに等しい。装い、誘いたい男などいない。のそんな現状を知盛は知っていて、も別に隠す気もなければ嘆く気もない。なればが着飾り、化粧をするのはそれが必要とされる時だけ。知盛に仕える女房として、主に恥をかかせないため。
「お前を繋ぐ、楔を与う……それはすなわち、俺がお前の一端を手に入れるということ」
瞳を細め、喉を鳴らし、知盛は愉しげに言葉を紡ぐ。にとっては既に自明の理でさえあることを、改めて、言葉をもって定義していく。
「お前の時間、確かに貰い受けたぞ」
これもあれも、色恋に疎いお前にもわかるようにと示した心であり周囲への牽制だったのに、お前はまったくわかってくれなかった、と。後より当の知盛にわざとらしく嘆かれたにできたのは、もらった紅が大切すぎてもったいなくて、使うに使えなかったという自覚の追いつかなかったかつての恋心を、ただ正直に告白することだけだった。
(望まれて望んで、そうして囚われるのならそこは楽園)
(けれど二人は籠を探す)
格子のない檻
(盲信するには視えすぎて、溺れ合うには近すぎた)