あまりに脆い束縛
それきり口を噤み、言葉を挟まぬ惜別の気配だけを漂わせていた静寂を、そして打ち破ったのは予想よりもずっと遅かった、あまりにも絶妙な折での彼女の狂想の終着点。
「知盛様ッ! 還内府様ッ!!」
ばたばたと駆け戻ってきたのは、先ほど将臣が遣いにと走らせた男だ。哀れにも顔色を青褪めさせ、どうするべきかと混乱の局地に立たされたのだろう瞳で一門が頂に立つ二人の将の前で膝を折る。
「敵襲か?」
「いえ、そうではないと思われるのですが、夜叉姫様のお姿が見えず……ッ!」
「なんだって!?」
とたんに表情を気配を引き締めて問いただした将臣は、しかし返された報告に浮かしかけていた腰を完全に持ち上げる。
「ただいま、見張りの者への確認を取らせております。どうぞ、お探しするためのご指示を願いたく――」
「必要ない」
男の裁量の中で適うだけの手は打ってあるらしい。実に優秀なことだと内心でその能力を褒め称えながら、知盛はごく静かに報告を遮る。
「知盛ッ!?」
「見張りからの報告は、ついでだからそのまま受けておけ。……だが、それ以上は、必要ない」
それこそ弾かれたように振り返って鋭く名を呼ぶ将臣のことは一顧だにせず、淡々と指示を与えて知盛は「俺が行く」と命令を締めくくる。
しばしの逡巡を挟み、男は黙って頭を下げる。それを受けた知盛がそのまま「残りの連中と、先に戻っていろ」と付け加えた指示を受け、夜闇の中に駆け去った。
彼は、知盛の抱える事情を知る数少ないうちの一人。それも手伝ってか、元より主にたいそう甘い知盛配下の郎党の中でも、ことさらその望みを叶えることにこそ執心する類の人間だ。これで準備は整ったと、小さく息を吐き出して知盛は厳しい表情で自分を見据えている将臣にようやく視線を転じる。
「お聞きのとおりだ……引き取ったからには、責は負うと、申し上げたゆえな」
「……お前は、胡蝶さんがどこに行ったのか、知ってんのか?」
「いや? 知るはずもない」
低く低く、激情を殺しているのだということをひしひしと滲ませる声で問われてなお飄々と受け流し、ゆるりと腰を持ち上げる。
「だが、わからんでもない」
「どういうことだ?」
「お前が、わかるべきではないことさ」
眩暈は治まった。もう、動くのに支障はない。腰に佩く愛刀とは別に左手に小烏丸を携え、酒宴の前に運ばせておいた沓を履いて追究の言葉を振り払うようにして将臣に背を向ける。
「じゃあな」
「おい、待てよ! 俺は何にも納得しちゃいねぇぞッ!!」
ゆらと踏み出す背中に抗議の声がかかるが、聞く耳を持つつもりもない。もっとも、それで引き下がる将臣でもない。舌打ちに続いて家人に「誰か、俺の履物を持ってきてくれ!」と叫ぶ声が聞こえ、彼が追ってくるつもりであることを確認する。
見たいと言うなら見せるに否やはない。後から細々と顛末の説明を求められるくらいなら、その方が面倒が少ないだろう。ただ、邪魔立てをされる可能性だけは認められない。そして、彼が深く傷つくだろうことをわかっていて知らぬふりをするのは、忍びない。
「知ったとしても、わかるべきではない……たまには、“年上”の言うことに、耳を傾けろ」
「――ッ!! 何しやがる! 解けよッ!!」
振り返らぬまま空いた左手の指を打ち鳴らし、放つのは束縛の術。身動きを封じて足止めとなし、罵声に見送られながら闇の奥へと進む。
「待てよ、知盛ッ! まだ、諦めるなよ……ッ!」
揺らぎ、歪む声が彼の状況を伝える。それを聞いて、損な性分だと、そう思う。もう少し愚鈍であれたなら、かくも優しい心根でなければ、知盛がなそうとしていることには気づかずにすんだだろうに。引き止められたところでもはや道を違えるつもりなどないが、少なくとも知盛には、将臣の才と不憫さとを悼むだけの心積もりはあった。それがこうして道を阻むことなのだと、そのことにさえ気づきながら、きっと将臣は涙に揺れる悲鳴にも似た叫びを上げているのだろうが。
枷にさえならぬあまりに脆い束縛を置き去りに、進む足は迷いなく。行き先は知らなかったが、わかるような気がした。それでも無駄足を踏むことは避けたくてそっと静寂に満ちた夜闇に気配を探る感覚の網を広げれば、奈落とも思える混沌を湛えた、哀しいほどに研ぎ澄まされた水の気の塊が推測どおりの場所にたたずんでいることが知れる。
命じた覚えなどないのに、社殿の燈明には火が入れられていた。蒼黒い闇の中、月と星との光とはまた別種の幻想的な気配を湛えて浮かび上がるのは、一門の夢と希望と栄光の具象。朱色の荘厳さ。終わりを髣髴とさせる、落日の色。そして、斜陽を凝り固めたような大鳥居の向こうにて舞う、夜闇にあって夜闇に沈まぬ、緋色を纏う狂惑の戦姫。
沿岸から海に降りる方が近いし簡単だ。だが、知盛はあえて社殿に足を踏み入れ、彼女の背中と一直線をなす平舞台の先から海に飛び降りた。水しぶきの跳ねる音と、足先が沈む感触。思った以上の深さに天を振り仰ぎ、そういえばじきに満潮だったかと思い出す。
「胡蝶さんッ!?」
強引に術を振り払ったのだろう。肩で大きく息をしながら、馬を駆って海岸線に姿を見せたのは人の良すぎる“義兄”。悲鳴でしかない呼びかけに、娘はぴくりとも反応を示さない。
「……適うなら、去れ」
「ンなことできっか! 早く、胡蝶さんを連れてこねぇと」
「………なればせめて、お前は、手を出すな」
馬を岸に残して海に躊躇いなく踏み込んできた将臣の腕を掴み、知盛は小さく首を横に振る。見るなと、そのために去れと。それは確かに忠言であり気遣いであったのに、将臣は気づいた風もない。妙に鋭く、変に鈍い。本当に、この男は損な性分だと思う。
Fin.