不器用な哀惜
神域なればと上陸を躊躇う兵達の心境をおもんぱかるという意味もあり、そこにこだわることに意義を見出せなかったということもあり。厳島に拠点を構えるにあたり、還内府は元は神職達が上陸に際して利用していた寝泊りの小屋やら祭礼用の建物やらを適当に割り振っての生活を指揮していた。無論、知盛はそんな程度のことに文句を言うつもりはなかったし、実に妥当な判断だと感じるほどには現実主義者であった。
泣いて、悩んで、苦しんで。ならばいっそ投げ出してしまえばいいのに、最後まで“還内府”などという怨霊の名を負いつづけることを選んだらしい男に従って、そして知盛は最期まで最良のコマであることを選ぶ。還内府の名は、確かに源氏勢を引きつけるのに有効だろう。だが、どうやらいまだに肝心の現実から目を逸らすことを諦め切れていないらしい青年に、この期に及んで敵の先陣に立つ娘をこそ直視しろとさらに残酷な後押しをする意味もまた、ない。
そう、本来ならば自分こそが負わねばならなかった責、果たさねばならなかった役職。なれば、平家そのものを体現すべき“一門が総領”こそが知らしめねばならぬ滅亡の証は、せめて自分が負うべき役職にして責なのだ。
詰めに詰めた策も、これで完成。もう軍議を開く必要はない。あとは、相手がこの舞台へと追いついてくれるのを待っていれば、それでいい。
こうして一門に残った主立った将が打ち揃って膝を付き合わせることもまた、もうないだろう。誰もが暗黙のうちに了解している最後の時間を惜しんだ将臣のことを、だから誰も咎めようとはしなかった。過ぎるほど丁寧に、もう必要のない部分まで繰り返し、最初から最後まで策をなぞりなおしては確認を繰り返すその不器用な哀惜の時間に、だから誰もが付き合った。
そうして惜しまれながらも次々に辞去の言葉を残して集っていた者達が去って後、酒を飲み交わしていたのもまたいつものこと。何をどうして彼がここまで自分に懐いたのか、その絡操りは結局わかりもしなかったが、人と人との関係なぞそんなものだろう。どうやら柄にもなく感傷的な気分であったのか、それともこれで終えるのだという感慨こそが張り詰めていた気持ちに亀裂を入れたのか、常になく深く酔いの回った自覚にこめかみを押さえていれば、いかにも気遣わしげに顔を覗き込まれる。
「お前、大丈夫か?」
「……大したことは、ない」
「本当か? 悪酔いなんか、してる暇はないぜ?」
病魔があまりにも深く触手を伸ばしているのに、酒なぞ飲んでもよいものかと。誘いたそうにしながら渋い顔をみせていた将臣も、さほどの影響も与えないだろうという薬師の助言と、どうせもう時間は残されていないのだから好きにさせろという知盛の断言を受けてからは、何かを振り切ったようだった。それでもなお酒精が病状に与えるかもしれない影響を憂慮する表情が拭い切れないのは、きっと彼の未練だ。
それを甘いと思い、若いと思い、けれど微笑ましいとも思った。だからこそ、最後の酒宴の相手が彼であることを知盛は嫌だと思わなかったし、むしろふさわしいと感じて誇りにさえ思った。
ゆえに、その優しく穏やかであまりに切ない酒宴をもったことについて、知盛は微塵の後悔もない。最後を憂い、恐怖し、惜しむ年下の”義兄”に対してそんな程度の甘やかし方さえできないほど、彼の”義弟”であるつもりはなかった。
けれど、やはり病魔はあまりにも深く知盛の体に巣食っている。加えて溜まりに溜まった疲労とここにきて緩めてしまった緊張とに眩暈はやまず、己が居住する小屋に帰るにはしばしの休息が必要であると判ずるには十分だった。
別に構わない、少し休めば戻ると言い聞かせたのに、人の良い“義兄”は聞く耳を持とうともしない。帰りが遅くなる旨を知らせる遣いを走らせ、大事にしまいこんである一門が宝物さえ持ち出してくる。
知盛には出所を確かめることができなかったが、熊野で遭遇した神子の取り巻きと接触することで、何か入れ知恵でもされたのだろう。生者と死者の気配が入り混じっていては決して生身に良い影響を与えないとの意見をもっともらしく振りかざし、気休めだろうがと表情を歪めながら、ことあるごとに、総領の許にこそと清盛から直々に預けられている破邪の神剣を押し付けるのだ。
俺が持っていても仕方がない。お前こそが持っているべきだ。そう繰り返されもしたが、かの神剣の真価を知っていればこそ、知盛はそれを拒み続けた。
将臣は気休めだと思い込んでいるらしいが、確かにそれが傍らにあれば邪気が祓われ、清浄な気に満たされることで症状が緩和される。だが、その加護は将臣にこそ与えられるべきだろうとも思っていた。
怨霊に囲まれ、怨霊を憐れみ、慈しみ、生きながらにして死人と呼ばれることがこの心根の素直な青年にとって負の影響を齎すことは明白。呼称の持つ力は強大だ。知盛のように戯れとわかっていて呼ぶならともかく、亡霊の姿を透かし見ながら重ねられる”還内府”の呼び名によって彼の魂が変質しないように守護を施すには、霊験あらたかなる神剣を持ち出すぐらいせねば間に合わないと、わかっていたのだ。
冬晴れの夜空は、星明りも月明かりも冴え冴えと映えて美しい。その光の硬質さを溶かし込んだような冷たい空気をゆっくりと肺腑に取り込みながら、一門の栄光への道行きの分水嶺ともなっただろう戦乱を象徴する宝刀の柄を指でなぞる。そういえばと、この時点になってようやく思いついた事項があったのだ。
「なあ、有川」
「何だ?」
「これを、貰い受けたいのだが」
柱に背を預け、頭を仰のけたまま声を放てば、隣からわかりやすく驚いた気配が返される。
「そりゃ、はじめからお前が持ってろっつってんだから、俺は構わねぇけど」
言葉は中途半端に断ち切られたが、声に未練は微塵もない。ありがたく許可を受け取ることにして、礼代わりに知盛は、途切れた向こうにあるだろう問いに答えてやる。
「小烏丸は、稀なる霊力を宿す神剣……。送ってやるには、最低でも、この程度の力が必要だからな」
曖昧に焦点をぼかし、きっとこの優しき青年が勘違いをするだろうという確信を抱きながら、けれど真実を一切隠しもせず。抽象的で婉曲的な物言いと言葉遊びは、知盛の得意分野だ。それを知っていればこそ、しばし思案する表情をみせ、そして将臣は哀しげに「ああ」と呟く。
「そっか、その剣、破邪の剣だもんな。そういう使い方も、できんのか」
「確信があるわけでは、ないがな」
焦点のずれた納得には、焦点のずれた答えを。正しく誤解へと導けたことを確認し、薄く吊り上げた口の端はすぐさま元の位置に戻す。無論、将臣が恐らく勘違いしただろう目的でも、揮おうと思えば振るえるだろう。それに、真の目的とてどうせ似たようなものだ。
この世に在る予定はなく、なのにこの世に映されてしまったがゆえに狂気へと沈んだ魂を、平家の夢の都へと送りたいだけなのだから。
Fin.